第1回朗読会

先日、Discordにて、第1回目の朗読会が行われた。
なぜ詩を朗読するのだろうか。詩は、文字で書かれるものである。詩は、文字なしではありえないが、朗読なしではありえる。このことを鑑みれば、詩が詩であることにおいて、朗読は必要条件ではない。しかし言葉の本来の姿は、声ではなかったか。文字を持たない社会は存在するが、音声を持たない社会は存在しないだろう。言葉と声の間には、密接な関係があるはずだ。文字とは違い、すぐにたち消えてしまう声。詩に音声という姿を与えることで、そこに詩の新たな一面が生まれるかもしれない。

今回は、朗読者5名、聞き専1名の計6名の参加があった。
【1人目】中原中也「春の日の夕暮れ」
・初めて出会った詩が、中原中也の詩だった。
・(朗読する際に気をつけたところを問われて)何かを読む時、目を滑らせてしまう癖がある。朗読することで、言葉の1文字1文字をたち上がらせる。朗読すること自体に意味があるので、具体的に気をつけたところとかは意識していなかった。
・「静脈管の中へです」の部分などから、何かがゆっくりと動き始めるような感覚がある。
【2人目】中原中也「疲れやつれた美しい顔」
・「さうあるべきだった多くの美しい顔」という部分にグッときた
・「諦め」だが「諦めとは思わないでだ」という表現
・三色菫が夜の部屋に咲く様子をイメージできる
【3人目】宮沢賢治「敗れし少年の歌へる」
・五七調で朗読するのに適している(暗唱しようとして覚えた詩)
・好きなバンドの歌詞に、この詩の一文が出てくる
・春と修羅未収録作品
・「きみにたぐへるかの惑星(ほし)の」など、分かるけど分からない詩
【4人目】中原中也「秋」
・3部構成が印象的
・タバコは哀愁漂うものである、「味が三通り」
・「たあね」が朗読の際に響く
・「沼の水が」澄んだという表現
・中也の秋に対する感性、秋に移り変わる時に、気をつけて見てみると、中也の言っていることがよくわかる
【5人目】古林暁「憑依」(自作)
・高校生の時の作品、当時は1文1文声に出しながら書いていた
・本来、作者の解釈は表に出すことをはばかられるものだが、どのように朗読するかでそれを表すことが出来る。朗読は、作者の解釈を出せるいい機会。
・(今は声に出しながら作品を作らないのかと問われて)読んだ際の音の響きばかりに注目しすぎないようにしている。詩が音に制限されないように。読んだ時の感触も重要だが、それで表現に乏しくなってしまってはいけない。

今回、五人中三人が中原中也の作品を選んだ。中也の人気ぶりを表していることに他ならないが、朗読との親和性もあるに違いない。他二つも、朗読するということを考慮して選ばれた良い詩であった。また、どの朗読者も、それぞれがよい朗読であった。今回、朗読者の内二人が演劇経験者なのだそうだ。しかし、技術的に上手い朗読であるということだけではない。声に出すということそのものが、詩の可能性を切り拓くものであるとするならば、朗読するために詩を選び、実際に朗読するということそれ自体に意味があるだろう。

顔出しをしない、声のみであるというところが、座談会や合評会にはない、朗読会のよいところである。また、Discordで行うということは、部屋着のまま家から参加できるということである。朗読会は、座談会や合評会よりも、気軽に詩について語ることのできる場といえるだろう。

そういう場として、これからも定期的に開催していけたらいいなあ。

(文責:Y.N)


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