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非運動部の私がアスリートに抱く“謎の対抗心”の正体

昨日の夕方、ソファで無印のとうもろこし茶をちびちび飲みながら、パリ五輪中継を観ていた。

画面に映るのは、柔道の阿部詩選手。二連覇を期待されながらの2回戦敗退。会場には詩選手の鳴き声が響いていた。うずくまった背中を突き破ってしまうんじゃないかというほどの、慟哭。そのシーンを見て私は、なぜか“悔しい”と思った。

でも、このときの私は詩選手の心情に寄り添って“悔しい”と思ったわけではなくて。ちょっと違うベクトルの“悔しい”を感じていた。「きっと今日まですごく頑張ってきたのに悔しいよね。観ている私も悔しい」というような、泣いている詩選手の心情に寄り添って生まれた“悔しい”じゃない。

(ちなみに私は小学校でミニバス、中学校で剣道をしていたけど、部活加入が強制だったから仕方がなく……といった温度感の人間だった。なので、「五輪に出場できていいな!私は出られなかったのに!悔しい!」という感情もちょっと違うと思う)

おそらく、私が感じた“悔しい”は、あの悲痛な叫びに対してだった。会場中に響き渡るくらい、背中を突き破ってしまいそうなくらい、叫んでも叫んでもおさまらない大きな感情。そして、その感情の背景にある、詩選手が今日まで積み重ねてきたものに羨ましさや嫉妬の念が湧いたんだろうと、一夜明けた今は思う。

私は大学生のときにスポーツ新聞を作る部活に入っていて、学生アスリートにインタビューする機会があった。そのときも、よく似た感情を抱いていたなと思い出す。ノートにメモをとりながら、カメラをかまえながら、原稿をまとめながら、“悔しい”“負けねぇぞ”という謎の対抗心が沸々と湧き上がっていた。情熱を傾けるフィールドは違うのに、取材帰りは毎回のように「悔しい!負けねぇぞ!私も良い記事書くぞ!」という謎のガソリンがどばどば心に込み上げてきた。

あれから15年ほど経っているけど、その想いはまだ死んでいなかったらしい。なんかこう、この“悔しい”“負けねぇぞ”は思春期やモラトリアム期間特有の感情であって、大人になれば自然と消えていくと思っていたのに。あらあら、私の謎の対抗心さん。随分久しぶり、元気にしてた?

きっと、私がアスリートに対して“悔しい”“負けねぇぞ”と謎の対抗心を燃やすのは、目標のために時間を費やすことに対する羨ましさがあるからなんだと思う。もっと大袈裟に言うと命の使い方というか。自分の貴重な時間を、命を、「私はために使ってます」という明確さが眩しいんだろうな。その過程で日味わうであろう小さな達成感だとか、そのうえで築かれていくはずの自信とかも。

じゃあ、私もそうやって日々を過ごしていったら?「私はこのために時間や命を使ってます」と明確に言える状態になったら??ちょっと違う景色見えてきそうじゃない???

とりあえず、毎日note書こう。そうして一日一日積み重ねていったら、4年後の五輪の時期には一味違った自分になれていそうだから。


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