デザイナー高畑勲のアニメイズム

スタジオジブリのアニメ監督であった故・高畑勲、そして宮崎駿。
彼らのその作品たちはあまりにも有名であり、それらは両監督において実に対照的で面白いものばかりである。

ジブリ作品の中で宮崎駿にあって高畑勲にはないもの、それは「主観」である。

それは作家性やメッセージ性と言った作品に込められた内在的なものだけではなく、観客である我々と作品、そして作り手とを繋ぐ「窓」を通すことによって見出すことが出来る「自己」を指すものだ。

先に宮崎駿作品をみると彼の思想、または哲学が色濃く出ているのがわかる。
自らがペンを持つ監督がゆえに「これはこうだ!」「こうでなくてはいけない」というような物語やキャラクターたちの背景に神の見えざる手が垣間見える。
それが作家自身の「主観」であって我々はそのコントロールされたものに感情移入したり第三者として見守ったりとそれを三人称[彼ら]の物語として楽しめるのだ。
つまりその作品は「宮崎駿の物語」なのだ。


対して高畑作品にはその主観が見られない。
もちろん彼の伝えんとするメッセージ性やいわゆるらしさというものは感じることが出来るが作品の中に彼の顔を見ることは希薄である。
それもそのはず、「主観」とは本来我々観客が持つものでありそれぞれが作品の中に見出すものだからだ。
そのために必要なものが「窓」でありアニメという媒体なのだ。

高畑作品にはある種の「普遍性」がある。
それは
誰が見ても懐かしく、
誰が見ても笑え、
誰が見ても泣ける。

また徹底的に表現された動きと美術の美しさや滑らかさは高畑の頭を介して場面上でコントロールされている。
即物的なその表現はリアリティというよりむしろ作品内での整合性を守っている。
それはアニメが現実にどこまで肉薄しているかという写実的ニュアンスではなく、アニメという限られた表現の枠組みの中で自らの知識経験を総動員した上で出来上がるある種の「洗練さ」である。

これらは高畑が「絵を描かないアニメ作家」「アニメ研究者の顔」ということに起因するだろう。

つまり彼の作品は「アート」ではなく「デザイン」なのだ。

ここでいう「アート」とは自己表現するためのツールであり「デザイン」とは自己表現"させる"他動詞的なツールを意味し併せて同じ芸術の意義語として扱う。


彼の持つ審美眼や哲学は作品という媒体に内包され伝播される。
これは例えるなら作品と私達が繋がることでメッセージを受信するアンテナが現れることを意味する。
そのある種のメッセージは観客のためにデザインされた誰しもが感じ得ること、つまり普遍性を持つ豊かな感情を想起させる装置として働くのだ。
我々はその結果、作品内の窓を通し「主観」を見出す。
それが作品を「私の」「あなたの」物語たらしめるのだ。
これもまたアニメの芸術的側面または機能と言えるだろう。そしてそのレベルは他の追随を許さぬほどに高い。

これが高畑勲の作家性=アニメイズムではないだろうか。

また、彼は作品を経るなかで表現を次々にアップデートしている。遺作となった「かぐや姫の物語」までに続く水彩タッチの描写やキャラクターの躍動感と挑戦は日本人の感ずる「アニメ的」な描き方として粋を極めているといえる。アニメを一つの媒体としてできるある種の到達点が彼の作品には存在している。

それでもジブリ作品の中で高畑勲のネームはどうしても国民的アニメ監督しての宮崎駿に隠れがちである。
なぜなら世間一般的にはアニメーションに対して娯楽やアートを求めているからであり「作家性」は表層的な「個性」と言い換えられる。
持たざる我々は作品に込められたその作家性を楽しむのがアニメというエンタメである。

子供から大人までが楽しむ機能を持つのがアニメの本質の一つである。
その機能のために高度にデザイン化された高畑作品はなかなか一般には浸透しづらいのかもしれない。
しかし彼の作品また教養溢れる彼の存在はアニメ界の進化の歴史、アニメの黄金時代を築いた巨人として語り継がれるべきであることは永劫揺らぐことはない。

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