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【ネタバレ】「君たちはどう生きるか」感想

これが宮崎駿最後の長編アニメかと思うとわたしは泣けた。
『風立ちぬ』を見た時も泣けた。あんなにも彼が好きで、夢中で描き続けた飛行機と少女が儚くも自らの思惑と違う結末を迎えるあの人生観の描き方に泣けた。
今作も同じことが言えると思う。これは彼の「けじめ」なんだと。
日本中の人々に影響を与えたアニメの巨匠が穏やかな老後を迎えるはずもなく、やはり我々に衝撃を与えまたメッセージを与えてくれた。
『君たちはどう生きるか』その君たちとは私のようなアニメオタクを指すのか、次世代の子供達を指すのか、後進のクリエイターたちを指すのか、それとも、、、


物語は母を失い賢しく、人を信じきれなくなった少年眞人の一人称で進む。
この母を失う、母を請い求める様は少年(男)のサガのようなものだろう。
今作において母とは死、そして生まれくる新しい命を身籠った生のメタファーであり同時に「火」も同一性を持つ。
この母=火=生と死の図式は随所で見られ冒頭の火事によって死ぬ実母、命を与えもすれば奪いもする火の力を持ったヒミがそれである。

眞人は義母の夏子を追い塔の中へ、そして不思議な力でもって下界(=あの世、地獄)へと誘われる。
あの不思議な世界はなんなのか、それは少年の心を沸かせる超自然的に見える自然そのものであり同時にそれをさまざまな切り口で持って読者を楽しませる古典的な本の世界である。
つまりあれは宮崎自身が見つめ続けそして影響され続けた「自然」と「空想」の世界そのもなのだ。
随所に見られる宇宙的なモチーフや不思議な生き物たち、そして風刺や寓話的ともいえる構造などはまさしく彼が描き続けた世界そのものだろう。

そこを舞台に繰り広げられる冒険は至ってシンプル。少女との出会いや友情、苦難を乗り越え元の世界に戻るというよくある彼のファンタジー構成である。

ではストーリーはともかくとしてあれに内包されている物語と一体なんなのか。

それは老境に至った彼の人生観とそのまとめ、全てが崩壊する虚無感である。

あの世界には3種の鳥たちが現れる。
ペリカン、インコ、そしてアオサギだ。
それぞれ後輩または同志のクリエイターたち、オタクや一般大衆または関わってきた仕事の人間関係、最後は鈴木敏夫である。

彼らは下界では人の様をしている。それは人そのものが業を背負った存在でありその不自然さ醜さを演出している。
ではなぜペリカンだけは擬人化しないのか、それは彼らは業の中でも物語を作り続けなければならないという人とはまた違うステージの業を背負っているからである。クリエイターたるもの生死や自然そのものを描画することからは逃れられない、だからペリカンたちは閉じ込められた空を飛び続ける。その中で(名前忘れたコダマみたいなやつ)を食べるのはある意味“逃げ”の行為である。目の前の物に向き合わず流れてくる甘い物に飛びついてしまうのは未熟な後輩たちへの警告だろうか。
インコたちはあの世界の主たる住人だ。同じ顔で同じ頭で隣のやつに前ならえで強者に媚び弱者は排他しようとする我々一般大衆そのものへの皮肉だろう。インコは人の声をまねるものだから。

アオサギは眞人をこの世界に引きづりこんだ張本人、あの付かず離れず時に蹴落とし時に支える姿はまさに盟友と言える鈴木敏夫だろう。あの膨れた腹も彼のビールっ腹だろうか笑

実はあの世界の鈴木敏夫はアオサギだけではない、あのインコの王もまた彼なのだ。
彼は老年の鈴木氏だろうかインコたちを扇動し従え、そして大叔父に敬服を示す。ジブリのプロデューサーとしての彼の姿が垣間見える。

ここでつまるところ、あの世界の創造主たる大叔父こそ宮崎駿なのである。

超自然的な物にふれ塔の中へ踏み入り戻ってこなくなった(劇中では本を読みすぎて頭がおかしくなったと語られる。たくさんの本に触れてきた彼自身の自虐だろうか?)大叔父はまさにアニメという空想の世界に飲み込まれた宮崎自身といえその老境の姿にはなんともいえぬ虚さがある。
その彼は眞人に世界に命運を託そうとする、しかしそれを断られ世界は崩壊する。

宮崎はたくさんの作品を世に送り出したくさんの人間に影響を与えた。しかし彼自身その力に限界を感じていたのではないだろうか?彼の過去の引退宣言もそうであったように前作『風立ちぬ』にあった悲壮感や虚脱感もその表れであったのではないかと思えてならない。
そんなアニメ界の巨匠が事実上最後に送り出したこの作品がそんな自分自身の作ってきたものへの自己否定に思え涙を流してしまった。

最後に眞人とは一体誰なのか、これはもちろん一人称映画であるからして観客に違いないのだが私は2人の人物と考える。

まず1人は宮崎駿自身だ。彼がさまざまな事物にふれ人との出会いや別れを経験してきたのは彼の半生そのものが描かれているのだろう。
つまりこの作品は過去と今の自分の対話という側面を持つ。作品を作り続けてかてさまざまなものに触れて得た経験は貴い物でそれを自身で巡る冒険譚は走馬灯のような物だろう。あの虚しさの残る世界の終りは彼からすれば邯鄲の夢だったのかもしれない。

そしてもう1人は息子でありジブリ後継者の宮崎吾朗ではないかと考える。
吾郎氏は父の作品を見て育ったが父ではなく偉大な先達としての姿を見てきたのではないだろうか。彼は鈴木敏夫氏の助言もあってアニメの世界に入り、大きな期待と不安を抱きながらその世界を歩んでいる。それを陰ながら見守り時に言葉を与え時に突き放すような姿はまさにこの作品の物語そのものではないだろうか。
巨匠と呼ばれるあまりのビッグネームになってしまった宮崎駿とジブリ。その本人から見た親子関係を描いたという見方もできるのだ。

大叔父とインコ王、眞人とアオサギ、この宮崎駿と鈴木敏夫の二面性が過去と現在とで描き出されている。ではそんな彼らが向けたメッセージ、「君たちはどう生きるか」とはどんな意味を持つのか。

それはまず我々大衆に向けてはジブリと宮崎駿自身への弔辞である。ジブリと宮崎はたくさんの作品を世に送ってきたがそれももう終わり、それらは一個人の創作に過ぎなくいつまでもアニメに囚われず現実を見よ、そして生きていこうというニヒリズムに満ちた自嘲とも言えるメッセージである。

もう一つ、ジブリという偉大な先達にひっぱられず自然や古典にこそ作品性を見出し創作して行ってほしいという後進の同志たちや息子に向けたエールである。確かに虚無的な物語ではあるが自然に対する畏敬や人間愛など身近にありながら疎かにしてしまっている素晴らしい物たちがモチーフとして随所にみられる。先輩として後輩たちへ伝える愛のある説教?かもしれない。

そして最後に、今からこの時代を担っていく子どもたちがこの作品を見て何を感じ何を見つけるかという問いかけである。物語といいモチーフやキャラクターといい宮沢賢治の世界観が大いに垣間見える作品であったと言える。宮崎自身が影響されてきてかつそれ次の世代に伝えようとしてきた古典文学や童話の世界。それを今度は自身の手で紡いだオリジナルの「童話」だったのではないだろうか。

アニメは子供が見るもの、しかし大人の鑑賞に堪える物とする。その故高畑勲とともに目指し作ってきたジブリ作品の精神を体現した「アニメ童話」として完成されているのだ。
この宮崎駿の人生観を内包した映画を見た「君たち」が何を感じ何をして生きていくのか、その長い人生に一滴の波紋のように小さけれども与える影響は大きいと思う。そんなアニメに出会えたことに感謝しながら生きていこう。

7/17起稿
以下、追記があれば書いていきます。失礼な言い回しや表現は言葉のあやです。多めに見てください。

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