いつかの日記(10) (『燃ゆる女の肖像』など)


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配信で映画『燃ゆる女の肖像』を見た。
恋とは見つめることであり、見つめることは必ず相手を侵襲する。恋人たちは互いの眼差しに傷付けられながらも、それを求め合う。眼差しが交差する一瞬だけが永遠であることをわかっているからだ。
未完成の、顔のない肖像画。前を行く者が「振り返る」ことの意味を、語り合う女たち。出会いと別れの場面における、追いかける者と振り返る者の美しい対称性。全編を通して念入りに強調される「顔を見せることの特別さ」の上に、肖像画を描く/描かれるという関係性のエロティシズムが、孤独で気高い若い恋人たちの魂の震えとして描かれる。

2019年にこの映画が作られたことをどう受け止めたらいいのかとふと思う。彼女たちの愛の普遍性と痛みの普遍性は分けて語られなければならない。遠い18世紀の物語としてここに描かれた女の絶望と連帯が紛れもなく私たちのものでもあることが、一つの絶望なのだから。

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美容院へ。待合のソファから髪を切ってもらうための席に移り、そのうちシャンプー台に移動し、また戻り…と言われるがままにふらふら店内を移動しつつ、頭部を人様の手に預ける約90分。プロにいい感じにしてもらうまでの間、私は限りなく腑抜けた、虚無に近い表情をしている。切られるがまま、洗われるがまま、完全なる受動態としての生き物…。一方で、そんな受動態の周りを滑らかに行き交いながら仕事を捌いていく美容師の方々には、接客に手慣れた明るさや朗らかさとはまた別に、独特の生命エネルギーを感じる。業務中常に、他人の毛髪を「切る」不可逆性と対峙している人たちだ、同じく業務中デスクトップの前でうなだれながらctrl +zを連打しているような者(例えば私だ)にはどうやっても纏うことができない迫力があると思う。
隣の席で店長に髪を切られていた女性が、美容院のゴミの出し方を熱心に質問していた。澱みなくしゃべりながらも一切手は止めない店長による解説、事業系ごみに関する区のルールについて。すっぽりとクロスを被り頭だけ出した客たちが皆、へぇ〜〜、という顔をしていた(気がする)。

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思いつきの痕跡としての雑文をばらばらと寄せ集めここに載せ始めて、これでなんとか10回。どんなことも、書いても忘れるが、書かないともっと深く忘れる。
日記、写真、録音・録画、議事録、レシート、デッサン、位置情報、あらゆるメモ、あらゆる創作、傷跡、ささやかな約束。今この瞬間に過ぎ去ってゆくものを掴み、ここに刻もうとする試みのすべてが、私たちのたくましい忘却力に対するちっぽけな反発であり、祈りです。

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つづく。

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