いつかの日記(19) (夢、セイウチ・トド、苦い食べ物)

日記のようなもの、つづき。

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いまの心配事が何と何と何で、それらを自分がまるっと何のせいにしたいのかが明らさまにわかるような夢を見て、萎えた。が、心配ばかりしてないでそろそろ心身を動かさないといかん、という気にもなって、のろのろと起き上がり、しっかり目の朝食をとる。トーストにはバターを塊で載せちゃう。バターはしっかり溶かして満遍なく塗るよりも、でこぼことむらができるように、いびつな塊を散らして載せるのが好きだ。カロリーでどうにか駆動したい休日の朝。

それがいかに愚かな幻想であろうとも、「夢を見た」という事実を、人は解消することができないのだ。

管啓次郎『エレメンタル 批評文集』p.61

いかにも自分の脳が編み出しそうな世界の愚かしさにも、自分の脳が見せたとはにわかに信じがたいような世界の愚かしさにも、目を覚ました私は揺さぶられる。管啓次郎『エレメンタル 批評文集』に収載のエッセイ「夢の鏡」が面白かったなぁと思い出して、トーストを掴んだのではない方の手指でぱらぱらページを捲った。覚醒後の生にまったく致命的ではない傷をつけては翻弄する、夢というものの影響の掴み難さを、こんな風に言語化するのかと感動したのだった。

少なくとも自分の思考とおなじように自分に属しているはずなのに、同時にそれは目をつぶっても見え耳をふさいでも聞こえる「他」なるイメージと声の領域であり、時の流れを超え場所の隔てを超える目覚めのとき以上の完全なコミュニケーション空間として、およそ「存在」と呼べるあらゆる者たちにむかって開かれているようにさえおもわれる。人が絶えずさらされている個別性と共同性が、いずれも自己のコントロールをはるかに超えたかたちで、撹拌され暴走しはじめる時空。あらゆる精霊たちが激しくゆきかう交通の時空としての夢の魅惑と恐ろしさは、この抑制を超えた性格において、その全体が人に対する暴力となる。

同上 p.66-67

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出版社の作る栞が好きである。本を買った時にしばしばついてくる、短冊形のあれです。
読むぞ!と勢い勇んで購入してはみたものの見ただけで気が遠くなる分厚い紙の束たち…に、理解できたかどうかはともかくとして、ここまではなんとか文字を目で追ってみたのだという一応の到達点を記してくれる、これまた紙でできた超簡易記憶装置。本の頁よりはさすがに厚いが厚紙とも言えないくらいのペラペラさで、挟んでもすぐ見失いそうな頼りなさがいとしい。

記憶装置と書いてはみたがその「思い出させ機能」はかなり大雑把であり、再び本を開く頃には自分が見開いた2頁の前半にいたのか、中頃あるいは終盤にさしかかっていたのか、しばしばわからない。仕方なく頭の方から読み、途中であ、ここはもう読んだな…とか思う。一点を指さすことはできず、「だいたいこの辺」であったことを示すあのペラペラは、1冊の書物という洗練された強い流れの中での後ずさり、行きつ戻りつの歩みを容認し、おぼつかない読書にいつまでも大人しく付き添う。

手元にある何枚かを使い回しており、最近読んだ数冊の書籍は皆、「セイウチ トド」と大きく印字された岩波新書の栞と共に、どうにか最終頁までたどり着いた。「セイウチ トド」の太文字の下には、セイウチとトドの違いについて、広辞苑による解説が小さな文字で引用されていた。セイウチはロシア語が由来なんだけどそのロシア語はトドを指してるとかそういうことも書いてあって、この間ふいに読んでヘェ〜〜〜と思ったんだけど、気づいたら、見当たらない。

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ゴーヤチャンプルーを作る。
子供の頃は「おいしい」とは「あまい」か「しょっぱい」のことだったが、いつの間にか「にがい」も「すっぱい」もおいしいと思う。「あまい」も「しょっぱい」も「にがい」も「すっぱい」も、発音してみると、その味のものを食べた瞬間の口の動きに繋がっているようで面白い。「にがい」何かを食べたときにヒィっと口角を引き攣らせながら素早く唾液を溜める体の反応とともに「苦味」を覚え、歳をとるうち多少ならそれもうまいものだと思うようになるのは、何らかの獲得なのか、喪失なのか。まぁゴーヤがうまいのは、良いこと。

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つづく。

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