いつかの日記(15) (通過する日々、ゲーリー・スナイダー詩集)

日記のようなもの、つづき。

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ファイル名に2024と打ち込みながら、もう24年か〜、もうそのうち年度末じゃーん、とつい思う。
月末とか月初とか期末とか期首とか、われわれ会社員の世界は見えない線を引き、守ったり跨いだりすることに年がら年中皆の膨大なエネルギーを注いで成り立っている。時間を区切り、かつその一つ一つの区間をブロックのように積み上げ、積み上げるごとにあらゆることは良くなる(する)という暗黙のルールがそこにはあるが、異様な考え方だ。が、異様なルールに一時心身をあてはめなければ会社員なんてやってられないと思うので、それで別に良い。

しかし、本来時間は「流れ」と「瞬間」だと思う。それは固定されない。積み上がらない。通り過ぎていく。
毎日コーヒーをいれるマグカップの内側に、円を描くように茶渋ができる。ソファのいつも座る位置が若干へこんでいる。茶渋の輪っかに答え合わせをするように、またコーヒーを注ぐ。へこんでいる位置にはしっくりとお尻がおさまるようで、またそこに座る。
生活には、無数の瞬間が繰り返し同じように通過した痕跡というのが、無数に散らばっている。通り過ぎることと、通り過ぎた痕跡だけがあり、日々痕跡をなぞりつつ、なぞりながら少しずつ少しずつ生まれるズレの中で深呼吸して生きている。

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なんとなくそわそわする日だった。たまにある、心に隙間風が入ってくるような、浮かんだり沈んだりする休日。お腹が空いてる気がするけど何食べたいかよくわからないとか、エアコンの適温設定がいまいちわからなくて上着を着たり脱いだりしてるとか、生活のごくごく些末な選択にほんのちょっとずつ躓いて、フッと心細くなる。

そういう日って文章が読めない。が、詩集ならいける。詩は、猫を撫でるように、言葉にさわっと触れるだけでいいから。ゲーリー・スナイダー『ノー・ネイチャー』をパラパラする。
”花崗岩の尾根一つと/木が一本あれば十分、”と始まる一編。誰もいない、真夜中の山中で。
”人間であることに伴う、あらゆるくだらぬことは、/つぎつぎに脱け落ち、堅い岩が、揺れる、/この重たい現在でさえ、いまの心のたぎりには、/とてもかないそうにない。”
静けさに満ちた暗闇で捉える、動的な予兆。堅い岩が揺れ、心が揺れ、人間であることの自我が揺れ、現在という重力が遠のいていく。

うっとりして言葉の手触りを楽しんでいるうちに、呑気を取り戻した。もう少しパラパラして、昼寝した。

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自分のことは自分が一番よくわかっている、というのは、わりとそうだと思う。その一方で、自分が「大丈夫である」ことは、自分よりもこの人の方がわかってくれている、ということはある。

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つづく。

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