いつかの日記(13) (斎藤真理子『本の栞にぶら下がる』)
日記のようなもの、つづき。
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斎藤真理子『本の栞にぶら下がる』を読んだ。本や読むこと、言葉そのものに対する愛着と客観性に支えられた読書エッセイ。
著者が本の読み方について使う、オノマトペの豊かさが面白かった。田辺聖子の大量の著作を「どしどし」読んで、その中の気に入ったものを「ごしごし」読んだ、とか。森村桂の本は、中学生の自分にも「するする、ぴゅーっと」読めた、とか。
あったなぁ子供の頃、そういう本。本をちゃんと味あわなければ〜とか読んだ後何か気の利いたこと言わなければ〜とか全く考えていない一直線の読み手であった時代に親しんだ、カジュアルな文体の、等身大の物語たち。言われてみれば、当時の素晴らしい友だったああいう本の読み心地は、「するする、ぴゅーっと」だった気がする。
読むことが生きる実感とがっちり結びついている人の表現だなぁ、と思う。
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あとがきに、書き始めた当初は新しい本もとりあげるつもりでいたが、思いつくのは古い本ばかりだったと書いてあった。本を読んで何を感じたかに加えて、どうして自分はそう感じたのかを紐解こうとしたら、読んだときの自分と本との交感の様、そのとき両者の間に生成していたものを俯瞰するための、年月という距離が必要なのだと思う。
古い本というか「過去に出会った本」を読み直し、また、現在から、夢中になって読んだ(あるいは、気分が乗らずあまり熱心に読めなかった)過去のある日へと眼差す長い射程の中で、本と私の関係性を読み直す。
例えば、著者が十代の頃読んだ『チボー家の人々』を、月日が経ち、子育てをしていた時期に読み直したときの述懐。最初に読んだときには同世代でもあり、親しく思えた主人公ジャックが、あまりに「男」であることに茫然としたらしい。
そしてまた時が経ち、「チューニングが合わなかった」当時も振り返りつつこう書く。
情熱的な出会いからすれ違いと内省、和解へ、相手は本だが、さながらドラマか映画のよう。
一筆書きのようにサラッとでも彼女の人生をなぞるような再読の記録を読んで、ごく当然だろうことに改めてしみじみとしてしまう。
アア、本はいつだって開かれているんだな。
読み終えた私がその後どこへ行き、どんな時間を過ごし、どんなにその本から遠ざかって生きようと、何かの弾みで記憶の蓋が開いてふと思い出すとき、それはふわりと開かれて「そこ」にある。だから何度でも、懐かしいページの前に帰ってくることができる。
一方で、私が帰るたび、もう一度「読む」ことをするたびに、その本は新しくなる、ともいえる。物質として文字の配置やページの厚みは一つも変わらないはずなのに、あの日と今日と、いつかまた読み返す日とで、目の前に広がる景色は必ず違っている。たとえ誤差くらいに微細な違いでも、そのズレが、揺らぎが、私がその瞬間までふにゃふにゃと定型のない生命として世界に晒され「変わり、生き続けてきた」ことを明かす。
本は読むたびに瑞々しく生まれる。流動するテクストに、自分の生が連動していることを実感するとき、(大袈裟な話でもなく)私はもう一日生きてみようと思うのだ。
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つづく。
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