いつかの日記(4) (春、なんかの入れ物、トマト、欧米の隅々:市河晴子紀行文集)

ほぼ一言日記つづき。

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春はバンドが聴きたくなる。音の隙間を色や光や風が埋めてくれる季節だ。

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帰省。実家とは、「かつて何かの入れ物だったもの」や「かなりなんとなく装飾された入れ物」がやたら活躍する場所。ハーゲンダッツの箱に塩昆布が入っている。「I AM A CAT」と印字されたボトルにシャンプーが、ちふれのフェイスクリームのケースにトリートメントが入っている。「ほんとうのしあわせをさがしにいこう。」と印字された手提げの中に家計簿と大量のレシートが入っている。

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親族の会話の中で「トマトのとみこ」と言われている人がいて、響きが可愛くて惹かれた(トマト農家を営むとみこさんの副業の話だった)。

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『欧米の隅々:市河晴子紀行文集』、読み終わる。

あたしゃ今、遙かなる大地に向かい晴子ぉぉぉ!!!と叫びたい。あるいは、小さなカーテンを片手で小さく開けて晴子…と囁きかけたい。書き手が手の届かないとんでもない偉人であることと、ピタッと寄り添いあえる魂の隣人であることとが同時に、痛いほど感じられるという奇妙な体験をした。(この人にはなれないがこの人の感じていることは私も知っている(わかるぅー)、という感慨。)

旅とはさまざまな風景に晒されることだが、市河晴子は風景との距離の取り方が独特な人である。そこにいる自分すら突き放すような厳しい角度から俯瞰する冷静さと、息の触れる近さで手のひらに包むように慈しむ親密さとの間を、自在に往来する筆致。このフットワークの軽さというか、レンズの極大と極小を反復横跳びするようにして世界を描写する脚力を、知性というのだろう。

そして、欧米の“隅々”とは素晴らしいタイトル!前にもこの本について「細部への関心」と書いたけれど、どこに行ってもその土地の“隅々”へ、彼女の関心と愛情と疑問とは注がれて尽きることがない。歴史的建造物や絶景、祭典など、明らかにもの珍しい物事の詳細が書かれるのはまだ分かるが、通りすがっただけの人々やふと目にした名もなき情景、自身が瞬間的に感じたこと(温度とかにおいとかまぶしさとか触り心地、乗り心地とか…)の描写の細やかさ、立体感、確からしさは記憶力も含めてちょっと信じがたい程度で、ここに一つの迫力がある。
編者の力もあるだろう、この本は常にハイライト、良さのピークなのだが、20数か国をまわった後、一緒に旅していた夫より一足早くエジプトから帰国するときの記述は、瞬時に最大の威力で、私たちが潜在的に知っている旅の終わりと別離の寂しさに着火する恐ろしい、素晴らしい文章だった。燃え上がる心の火の中でおろおろしながら、ここまで読んできて本当に良かったと思った。

巻末の解説に、靴ではなく草鞋での旅を好んだことが引用されていたが、草鞋の足元のようにあっけらかんと軽快でタフな文体に乗って、世界の隅々が、晴子の命の燃える音と共に輝き、弾けまくっている。

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『欧米の隅々〜』、編者高遠弘美氏の解説も、晴子のがちファンであることがひしひしと伝わって良かった。90年近く前の文章を読みやすく、しかし芯にある命を損なわないように超〜気を使ってまとめ整え、世に放ってくれること、ありがたい…。コトン、と手に確かな重力を感じさせるこの一冊が編まれるまでに、膨大な収集があり、おそらくそれらのほとんどは「背景」として透過処理されただろう。偉業だ…成し遂げられた方に毎日ちょっといいことがあってほしい…。

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たまに饒舌日記だ。つづく。

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