心とはなにか について考える①

精神とは、心とはなにか。
心とは何か、精神とは何か。この問いに対して考えるとき、人は大きく二つの立場から考察を行うことが多い。

・唯物論
・唯心論

双方についてざっくり解説しよう

【唯物論】
唯物論的観点からすると、「心」は物理的、科学的な現象である。
脳内の神経活動やシナプスのやり取りが意見や感情を生み出し、すべての精神活動は脳の物理的構造に依存すると考えることができる。

非情に科学的な考えである。
また、この前提をもって現代の精神医学や神経科学、心理学などの実用的な学問は成り立っているため、非情に実証性が高いといえよう。

【唯心論】
心や意識が物理的現実に先行して、物理的な世界は心の表現、または構築物であると定義する。
物理的現実を認識するには、意識や心が必要で、私たちは五感を通じて現実世界を知覚する。この知覚そのものが心の働きと考えられる。
現実世界を超越した「心」が存在しており、物理的現実は心の産物である。
感想でしかないが、「概念が物理的現実に先行する」という点でイデア論にも似ているな、と感じる。

唯物論は「物理的現実を通じて精神世界を説明する」
唯心論は「精神世界を通じて物理的現実を観測する」

と言い換えることができよう。

ちなみに私は生粋の唯物論者であるため、「心とはなにか」については下記の通り回答する。

「心とは、脳の出力結果である」

順を追って説明しよう。

精神医学に言わせれば、
「なんだかメンタルの調子が悪いな~心が沈んでるな~鬱っぽいな~」って日も、結局は脳みその調子が悪いのである。薬でセロトニンの再取り込みを抑制して~など科学的アプローチが有効であることは証明されている。

メンタルや心など一見スピリチュアルな概念に対して、脳に作用する薬を用いることである程度のコントロールが効く。
これは心や精神が脳に起因することをわかりやすく実証しているといえよう。

精神医学によらずとも、そもそも概念としての「心」は観測することができない。概念なので当然だが。概念ではなく、脳機能の一部と定義することにより、科学的観測が可能となる。

よって我々が「心」と呼称するものは脳機能の一部であり、出力結果にすぎない。

・・・と私は考える。

が。

唯物論では説明しきれない現象も科学的に観測されている。
下記二つを挙げてみよう。

【二重意識】
「分離脳問題」と呼ばれる研究である。
てんかん(脳病の一種)の治療法として、脳漿(左脳と右脳を繋ぐ神経の束)を切断した患者が対象となる。

ちなみに一般的な科学的事実として、前提として下記を覚えていてほしい

・人体は右脳が右半身を司り、左脳が右半身を司っている。
・言語野については左脳が司っているとされている。

対象患者は、一つの体内に二つの独立した意識が存在するように見えることがある。
例えば、患者の顔の右目と左目の間に仕切りを置き、右眼球の前に「リンゴ」と書かれた紙を設置。左眼球の前にリンゴとバナナとメロンを設置したとする。

患者は左目に目隠しをし、右目のみでリンゴの文字を認識(左脳で観測)した際、何と書いてあるかと聞かれると「リンゴ」と回答することができる。これは左脳が言語野を司っていることに起因する。

その後患者の目隠しを取り、「紙に書かれているものを左手に取ってください」と指示したところ、左手でリンゴを握ることができたという。右目(左脳)では「リンゴ」を理解しているが、左右の脳は切断されているため、左目(右脳)はリンゴという文字を認識できないはずである。
であるにも関わらず、左手(右脳)でリンゴを手に取った。

その理由を尋ねると、「これが食べたかったから」など、適当な理由をでっちあげるという。

これは、左右の脳が物理的に神経回路でつながっていないにも関わらず、さも連動して機能しているように見える。
物理的な神経回路だけでは説明できない何かがあるのだろうか。

【結合双生児】
結合双生児をご存じだろうか。
生まれつき、体の一部がくっついた状態になっている双子のことである。
この結合双生児の中には、一つの体に二つの頭部がついた双子もいる。
それぞれの脳がそれぞれの意識をもつとするのであれば、二つの意識が体を動かすので、双方の脳からの指示がぶつかるので、思うように体を動かせないと思いきや、双子はお互いの意思を言葉にせずとも上手に体をコントロールして生活している。

概念的な「心」や「きもち」で通じ合っているのだろうか。

上記2つの事例をもってすると、「心は脳機能の一部である。脳に起因している。」という唯物論的意見が揺るがされることとなる。
私は何とか反論を考えた。

分離脳問題に対する反論:
→実験の再現性は保証されているのか。再現性のない偶然の事象ではないのか。
また、人間の脳はわからない部分や証明されていない事が非常に多い。
「左脳が右半身、右脳が左半身をコントロールする」というその前提が間違っているのではないか。

結合双生児の意思疎通に対する反論:
→お互いの行動の予測が習慣化しているだけではないか。

・・・どちらも科学的根拠に乏しく無理がある論述である。
「今後の科学的研究によって前提が覆るかもしれない」ことを期待するという、非常に先送りで道具主義な反論しか出なかった。

唯物論の正確性や信憑性については私ごときが語るべきではないが、残念ながら私は唯物論をもってして心や意識のすべてを定義することができなかった。
(単純に唯物論云々の前に私の知見が足りないだけな気がするが。)

さて、読者は唯物論と唯心論、どちらの立場に立っているだろうか?

どちらかと言わず、双方の良い点を都合よくつまみ、自由な解釈をするのもまた正解のひとつと言えよう。

もちろん

「俺は難しいこたぁわかんねえからよぉ!唯心論だ唯物論なんて知らねえけどよぉ!心はここ(胸)にあるんだ!!」

と情熱で熱く語るあなたも、私は素敵だと思う。その純粋な情熱と信念もまた、心の一つの在り方であり、非常に魅力的である。


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