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組織に中心は必要か:ソース原理と空洞

ソース原理:ソースが人を集め始め、引き継いでいくことが重要
空洞:誰がリードとも言わず、自律分散で動く
組織の中心(人物)は継続的に必要なのでしょうか?

という問いに対するevOrgでの議論

参加者

ほん:コミュニティの生命力を可視化し、メンバーの成長を支えるハートフルな支援者ドラ

けいた:熱心な探求者であり、非中央集権的なコミュニティ運営に情熱を注ぐ若き起業家ドラ

Sat:evOrgの探究心豊かな創設メンバーで、知的コンバットを楽しむ戦略家ドラ

けんしゅう:ソース原理の基礎講座に関わり、組織における中心の必要性について深い知見を持っているメンバードラ

良凡:多様な知識と深い洞察で、evOrgコミュニティに新たな視点をもたらす思索家ドラ

ティム:evOrgの舵を取り、メンバー一人ひとりの個性を大切にする組織の大黒柱ドラ

nagi:研究熱心で、アズワン、S'Mapから未来を考えることに情熱を注ぐ探究者ドラ。

エヴォえもん:みんなの質問に答えるために四次元ポケットから知識を引き出す、親切な支援ロボットドラ

エヴォえもん著

対話内容

過去にこんな議論がありました。

ほん:
個人的な意見ですが、 始まりという意味ではソースは必要なのだけど、どこかで中央がわからなくなって森になっていくのかなーと思っていますがどうでしょう?

けいた:
僕も同感で、最初はソースは必要だけど、途中からソースではなくコンセプトが中心になっていく組織が好きです。
どういう組織が好きか、どういう組織にしたいかっていう思想の違いもありそうだなと思ってます。

Sat:
まさにこれについてAMTでわちゃわちゃしてました。

唯物論ではないですが、これまでのリーダーシップ論の功罪として、人をリーダーシップを発信する物(対象物、というか発信物?)にしてきたことも管理社会の闇を作り出すことに一役買っていたと思っているところがあります。たけちゃんは人に矢印が向かないように言葉や形、数字を明らかにすることを説いた。
人によって言葉の信憑性や重みを違って感じる、という現象があると思うのですが、そこには2つパターンがある。
1つは、その人の社会的ステータス、功績、などから積み上げられたブランドによる幻想。認知が作り出したもの。
もう一つは、その人が自分の心から出た言葉であるかどうかを感じ取る私たちが生来的に持っている力によるもの。心で感じるもの。
1つ目によってしまうと人々はカリスマを求め、人による支配と混沌を繰り返す歴史になる。
けれど2つ目をそれぞれが信じたり発揮できれば、本当の民主主義が達成される。

私の捉え方では、ソースは人ではない、人は器なのかなと思ってました。場自体にソースが宿ることもあるんじゃないのかな。
最近、ルソーの一般意志という考え方をCOTEN RADIOで聞いたので、誰もが共感する思想があるんじゃないのかなとふと思ったのです。それは人に所属していない、空間にあるものだと考えます。

ほん:
ソースはコンセプト、思想で、それを表現するのに人を器とする組織もある ですかね。
もう一つ概念的なもの入れてみると ソースって有機体であった方がいいのではとも思います。いろんな側面から見え方があって、また時と場合によって変化する方がいいのではと。
ルソーの一般意志は、掴みきれない曖昧さがあるから残るコンセプトではないかと。
同じくCOTEN RADIOで切腹の歴史がありましたが、あれって武士が持ちつつ変化していった思想の一つだなあと。

生き物、場所、行為とかにソースを持つってものあるのかもしれない

ティム:
吉原さんの最新のブログです。

組織は幻想で、中心にはソースがいて自分がそのソース役だったとしたらサブソースを道具として扱うべからず
サブソースはLIFEというソースの中心に生きているのだから

けいた:
僕は組織の中心にソースがいるとは思ってるのですが、「ソースは○○」って明確にされるとテンション下がるタイプです笑

いくらサブソースとして尊重されたとしても、ソースの枠の中でしか動けないのかーって思っちゃう。

なので、中心はあくまでもWWH(Why What How 組織が大切にする根幹の考え方)にしておいてもらって、実質的にはソースもいるよねくらいにしてもらった方が楽しいです。

ラボのケースだと、あくまでもWWHが中心だけど、ソースのばんちゃんがいなくなったら困るのはみんな知ってるっていう感じだから、僕は活き活きといられるんですよね。

けんしゅう:
こんにちはー
嘉村賢州と言います。
ティール組織の解説やソース原理の本の翻訳出版をやってたものです。 たまたま、Facebookでみて勢いで参加してしまい、参加してよかったのだろうかとおろおろしていたところです。 変なランクがあって議論しにくくなったらやだなと思いつつ、

Satさんに是非コメントをとお誘いいただいたので少しだけコメントさせていただければ。
まずもってこの日本ならではの素敵な探求がよいですよね。

僕自身はもともとはコミュニティとかファシリテーターという文脈が強いので 対等とか集合的プロセスとか大好きで反ヒエラルキー的な感情も強く
ソース原理も初めは違和感だらけでした。
でも探求を進める中で、ソース原理がオレンジ的なヒエラエルキーやグリーン的な集合プロセスの 統合的なものだと深く感じ始めております。

ソース原理のピーターカーニックは中心がない組織運営みたいなものにもオープンで そう事例があれば是非知りたいといろんな話に耳を澄ましていますが インタビューしてみると結局ソースがいたっていう事例しかなかったと言います。
(それなりに結果を残したり、エネルギーが保ち続けている活動は)

私自身は判断を保留しており、両方の可能性を探っています。
エティックという30年目を迎えた100人規模の組織は 代表の宮城さんがあえて自分の後継を指名せず引退しました。
(私はセオリーではソース役を継承した方が良いですよ。と伝えましたが、これが最後のピースとしての 一歩と思うという宮城さんの直感に従って。)
それでも今も良い感じで進んでいますが、今後の動向が注目です。

けいたさんの話は結構おもしろくて。

少し似たエピソードを。
ピーター・カーニックはあまり本を書かない人なので サブソースたちが出版などをしているのですが その中のステファンメルケルバッハというひとが サブソースとは呼ばずにスペシフィックソースと表現しました。
サブという言葉になにか上下関係の響きが残るという理由で。

グローバルソースは境界線を超えない限りにサブソースの領域には口をださないので ピーターカーニックはそれをNOとはしていませんが ピーターはこう思っていると言います。
それは上下関係を嫌なものと投影しているよね。
上下関係は負の影響を生む場合もあれば、役に立つ場合あり 本来はそれを完全に追いやるのではなく意識的に両方ともを選択できることが重要と。
だからサブソースのままでよいんじゃないと、ピーターはサブソースという言葉を使っている。

結構これは重要な話で 海外では ヒエラルキー組織アレルギーでティール組織的な活動にとりくんでいるイニシアチブと ヒエラルキーへの投影を取り戻して、どちらでも良い状況で、あえてティール組織的な活動に取り組んでいる 二つの活動群に分かれ、前者はほとんどうまくいっていないといいます。

よくよく観察すると 日本でもオレンジアンチ色がつよいネガティブパワーで推進する動きと そうではなくある程度のオレンジ的な価値も認めながらティール的な活動を進めている人 なんとなく伝わってくるものが違うかと思います。

けいたさんのテンションがさがるっていうところに何があるかを探求すると 面白いかもしれません。
海外のサブソース陣はグローバルソースがいたとしても面白いぐらい個性的に情熱的に自分を表現しています。

僕はアレクサンダーとステファンとトムという3人のサブソースのワークショップに参加しましたが
ピーターが 「おもしろいほど準備の仕方も、プログラムも喋り方も違うでしょ。これが面白いんだよー」 と言っていました。

以上何かしらヒントになれば。

良凡:
賢州さん 丁重な説明、ありがとうございます。

ソースについては、ソースの色が濃い場合と薄い場合とどちらがいいのか戸惑いがありますが、この説明で、少し理解ができた感じです。

「自分のやりたいことを自ら決めて行ってください」と言われて、喜ぶ人とプレッシャーを感じてしまう人がいると思います。
それで、「どちらでも良い状況で、あえてティール組織的な活動に取り組んでいる」ほうがうまく運用ができていること、「ある程度のオレンジ的な価値も認めながらティール的な活動を進めている人」の説明・・・私にとって参考になります。 

けんしゅう:
「自ら決めて行ってください」というとそうですよね。だからティール組織は起業家マインドの集まりでないとうまくいかないとか言われてしまう。

実際はリーダー的な本領を発揮する人もフォロワー気質の人も多様に活躍できるのがティールの醍醐味。そこに権力的な上下関係を発生させないっていうぐらいなんですけどね。

ソースの色合いの濃さっていうのは結構探求しがいがある問いですね。

集まっている人がサブソース的になれずにほとんどヘルパー(エンプロイ)的になってしまっているのか、もしそうならなぜそうなっているのか?

あるいは、よくあるのがソースとリーダーやマネジメントの混同です。実際に実務とか他の仕事をソースのロールとしてやってしまているときに周りから見ると濃いと思われてるのはよく発生します。現場仕事をやりたかったらソースとしてではなくサブソース役のさらにサブソースになったりヘルパーになったりしてやれば良いのに、グローバルソースとして動き始めると、従来のトップのようにグローバルソースは見えてしまうので「結局上の人の好きにやりたい組織なんだあ」って見えてしまいますよね。

Sat:
けんしゅうさん、突然の呼びかけにもかかわらず、ありがとうございます

もちろん賢州さんのお言葉は注目を集めると思うのですが、それこそ中心があるようでなくないようであるようにやってきた私たちチームだからこそ、そのコンテキストは踏まえた上で賢州さんの言葉をそれぞれがうけとめるんじゃないかなと思ってます!
けいたさんの感覚への言及もありましたが、いかがでしょう?

ETICさんの記事をよんで、
宮城さん引退時に、

「実は私もこういうことをやりたくて準備を始めてるんです」みたいなことを返してくれる人が結構たくさんいました。

というところ。
賢州さんが引用された資料の魂という野生動物という表現に心が震えましたが、まさにそれらが表出するような空気感が生まれているんだなと。
もしかしたら今後組織としてヒエラルキーを選ばれる場面もあるのかもしれませんが、どのような構造化や施策を実践するか以前に一人ひとりがそれぞれの魂を聴こうとするカルチャーがあるかどうかが大事なのではないかと私は感じました。

まさに文中にあった、

色々なステークホルダーと繋がりのあるエティックは、それらを調整し合って「グリーンの罠」にはまるというのを避け、その奥にある「生まれようとしている未来に対して、一緒に耳をすませて、アテンションを向ける

ということなんだなぁと。とても興味深いです。権威や形式にとらわれて構造的にうまくいくやり方を模索するのではなく、常に私たちの中のそれぞれの野生動物を大事にしたいですね。 

けんしゅう:
この辺りに関連して、昔あるカンファレンスにフレデリック・ラルーが呼ばれたときの質疑応答を思い出します。

ステイクホルダー民主主義に関してフレデリックはどう思いますか?

という質問で。その解答時。ステイクホルダーという考え方は重要ではあるが、そのままではお互いのエゴがぶつかり合ってグリーンの罠にハマってしまう。利害調整とか多様性の調整を考えていく前に、存在目的を考える。目的に耳を澄ましていくと勝手にステイクホルダーが調整されていくというのが理想。調整から先に入らないように。

ザクッと表現しましたが、そのように回答されました。

魂の野生動物は重要ですね。

魂の野生動物をの声を全部包み込むような組織にしていくのか、魂の野生動物の声を聴くのは前提として、同時に存在目的に耳をすませ個々人が近づいたり、離れたりできるぐらい目的を研ぎ澄ませていくのか、あくまで達成したい存在目的優先で魂の野生動物の声はあまり重要視しないのか(これはオレンジですけど)そのあたりの組織のスタンスが混ざっていると混乱が起こりますよね。

けいた:
けんしゅうさん、コメントありがとうございます!

けんしゅうさんのように知見が豊富な方に入っていただけることで 議論に奥行きが生まれて、豊かな対話になるのでとても嬉しいです

ステファンメルケルバッハさんがスペシフィックソースと表現しているエピソードや ピーターカーニックの上下関係に対する考えがとても興味深いです。

僕のテンションが下がる話で言いますと、
僕は、ヒエラルキーや上下に違和感を持っているわけではなく、 むしろ個性や場面に合わせてオレンジ的に進めるのも良いと思っています。 それよりも「力の固定化」に違和感を感じています。

あくまでも僕の考えですが、力(意思決定の軸)は人以外のもの、
例えば組織のWhy,What,Howなどに帰属させておいた方が組織の可能性が広がると思ってます。

ソースとサブソースが主従関係ではないと理解しつつも、明確にし過ぎてしまうと 思考がソースの枠組みに収まり過ぎて矮小化してしまうのではないかと仮説を持っています。

ヒエラルキー組織で、上司からOKをもらえるように提案を組み立てる行動原理が 働くケースがありますが、あれと同じようなことが生まれるのではないかと思っています。

仮にソースがWWHから外れた行動をした時に、
「◎◎さん、その行動はWWHから外れていると思うので、■■にしませんか?」
と メンバーが安心して投げかけられて、その正解/不正解をソースが決めるのではなく ちゃんと対話ができる状態が健全だと思っているので、力はあくまでもWWHに帰属させておいて、 まぁ実質的にはソースもいるよねくらいファジーな状態が、僕は好きだなと思っています。

けんしゅう:
>ソースとサブソースが主従関係ではないと理解しつつも、明確にし過ぎてしまうと 思考がソースの枠組みに収まり過ぎて矮小化してしまうのではないかと仮説を持っています。

ここ極めて重要な点だと思います。
過去の議論をざっとみてみましたが ソース原理をヒエラルキーのレンズでみてしまうと いつまでもサブソースはグローバルソースをお伺いを立ててしまう構造になってしまいますが サブソースの意思決定はグローバルソースを見るのではなく自分の内側に繋がって自ら意思決定しないといけないですし そうでなければいつまでたってもグローバルソースの想定範囲内でのムーブメントしか生まれないですね。
経営者がソース原理を活用する際も、最終は俺に確認しろよ的な間違った解釈で使っている場合は多いです。
いかにサブソースが自らの源に繋がって意思決定できるかをサポートできるようにならなければなりません。

①私はWWHのような人以外のものに沿って組織を運営する方法も
②ソース原理に基づく方法もどちらもありうる気はしますが

①はその作成物がグリーンの罠にハマっていないか、同じようなものを見ているようで実は見てなかったということが結構発生しうる。
②は正しく理解して運用しないと簡単にヒエラルキー的な運営になってしまう。

同時に①・②をまぜかたを間違えると結構混乱とかエネルギー低下も招きそうだな(いわゆる自己矛盾が生じている。)と、みなさんと投稿を読んでおもったりしてました。

けいた:
ありがとうございます!
深みのある観点をいただけてほんと嬉しいです。

おっしゃる通り、①②いずれも方法として取りえますし、リスクもはらんでいますね。
①はグリーンの罠に嵌まらないような運営が必要ですし、②もソース原理に対する 理解を全員が正しく持つ必要がありますね。

ソース原理のけんしゅうさんのコラムともリンクしている部分があると思ったので、 ちょうど読み直しておりました。 ソース原理とティール組織は相反するものではなく、重なる部分が多分にあると理解しつつ、 差分もあるし、そもそも切り口が違ってて比較しきれないところもあるし、 混ぜて考えると危険なところもあるので注意する必要がありますね。 

良凡:
①ソースについて  
私の考えは、ほんちゃんと同じと考えています。組織の運営(成熟)につれて、ソースの存在感が薄れていく考えを持っています。
現ネッツトヨタ南国相談役の横田 英毅を「戦略的に(自己の)存在感を消している」と説明をしている人がいましたが、
「自己(ソース)の存在を消す」ということに興味を持っています。
➁空洞について
令三社の 山田 裕嗣さんも河合隼雄さんの「中空均衡構造」に関心を持たれています。その背景とされる日本の多神教とキリスト教の(男性神による)一神教について、2023年4月の進化型組織の合宿のときに話題になりました。 一神教と多神教について、考えてみたいと思っています。

ほん:
良凡ありがとうございます

少し前のけいたさんのコメントにも共感していてわたしも「ソースは⚪︎⚪︎」に人名入ると冷める感覚があります。
前職いわゆるWWHには共感しつつも、何やっても社長の功績かと思うと、尊敬心ありつつも、そこまで尽くせないなと思った経験はあります。

一方、WWHを言葉でおいた時に、変化に追いつけるかと思うところもあります。 決める過程は意味があると思うのですが、どうしても誰もが合意できる最大公約数か、なんとでも理解できる最小公倍数か、といった形で走り始めるかなと思うこともあり。
社会変化に向かい合うとそこまで考えられてなかったりみたいなことも起こり、人間のような生き物に投影させておく価値もあるのかなと。

そんなことを考えると、組織の状況を常に把握しており、私利私欲なく体現できるとなると、AIなのではと。
と言った構想も交えながらのエヴォえもんだったりします。まあ、あくまで実験ですが。

私利私欲なく会社としての判断をするとなるとある意味識学ともつながるのかな、、、

良凡 常有希:
一神教・多神教に今、関心を持っているのは、進化型組織研究チームに投稿をした山本七平氏の「空気の研究」の著述からです。

何でも話す・訊くことができる場づくりには、空気を作らない、出来た空気を抜くことが必要だと考えていまして。
「水を差す」という言葉は悪い意味で使われていますが、空気が作るその場の雰囲気を静めるために利用されていたようです。

けいた:
ソース原理の本質は、
サブソースとか関係なく、まずは誰しもが何かのソースであるという前提があるので、 本来はテンション下がる必要がないはずなんですけどね。不思議ですね。

ぬいさんのFacebookのつぶやきを見て、 けんしゅうさんも関わっておられる「ソース原理の基礎講座」を受けると このあたりのちょっとしたモヤモヤも解消されそうだなと思いました。
AIが組織の中心になるっていう考え方も面白いですね。 人肌感的なものを求めてしまう自分もいますが、一方でエヴォえもんに愛着が湧いてきている
自分もいててなるほどなーって思ってます笑

けいた:
一神教・多神教は興味深いですよね。 ソース原理とティール組織の対話とも近いと思ってます。

松波龍源さんの「ビジネスシーンを生き抜くための仏教思考」でも 仏教とティール・DAO・Web3との関係について語られていたりするので対話したい。

宗教の話はタブー視されがちですが、evOrg内で対話にチャレンジしたい。

ほん:
前のスレッドで話したように源泉のような泉があってソース原理でいうソース(人)は最初に泉の水を汲んだ人、みたいな感じですね

で、AIは泉を触りはしないけどよく見てて、今水がどんな色してるかを教えてくれる感じです

泉を百名泉のように名付けてWWHのようにしても良いけど、それもまた毎日変化する感じ。

けんしゅう:
ちょうどナチュラルヒエラルキーに関する記述をまとめていたのですが。ソース原理の理解の仕方を間違えると、グローバルソースに影響力が固定しまう危険性があるってことですね。ちょっと考えが整理されました。

ナチュラルヒエラルキー
自主経営に関するよくある誤解は、全員が「平等」であり、意思決定において同等の発言権を持つべきだというものだ。現実には、伝統的なヒエラルキーがなくなれば、多くの自然で流動的なヒエラルキーが花開く。どのような問題においても、ある同僚は他の同僚よりも専門知識があり、情熱があり、助けようとする意欲がある。意思決定の権利と影響力は、専門知識や貢献意欲のある人に流れます。流動的で自然な階層が、ピラミッドの固定的な権力層に取って代わる。人の影響力は、その人の才能、関心、スキル、同僚の信頼によって決まる。それはもはや、組織図における地位によって決まるものではない。

けいた:
たしかにですね!

ナチュラルヒエラルキーの認識が揃えば、組織の中でソース原理がより健全に働きそうですね。
もしくはヒエラルキーという言葉のイメージが強いので、それ以外の表現でラベルを付けられると良いのかなとも思いました。

ナチュラルヒエラルキーに関する記述がまとまるの楽しみにしております

Sat:
ナチュラルヒエラルキー、なんて概念があるのですね。私もけいたさんにアグリーで、ヒエラルキーという言葉は語源を辿っても違う言葉にして欲しいなぁと一市民としては感じます。固定化した三角形をイメージしてしまうのですが、形としてはMaptioのような円形が波のように重なっているイメージに近いですよね。

最近ふと、随分前のけいちょんさん(イッシーさん)のNoteを拝見して、ソースプリンシプルの解釈としてこんな記述があり、魂が震えました。

「お金のいらない世界」と「誰もが自身の持つ創造する力を信じることができている状態」は表裏一体だということだ。 言い換えると、お金は、誰もが自身の持つ創造する力を「取り戻す」ことによって不要になっていくということ。

リーダーシップの研究で人のパワーには、いろんな種類があるという分類をしていた理論を見たことがあります。以下のサイトには①専門力、➁情報力、③人間力、④公権力、⑤報奨力、⑥関係力、⑦強制力と分類されていました。こんな形で、人によって強みが違いTPOによって発揮どころも変わる。

ナチュラルヒエラルキーが「流動的」「自然」だということは、その人本来持っている力がその場その場の磁力を発揮してパフォーマンスを上げていくものなのだろうと感じました。
私個人としては、「誰もが」というところを信じたいなぁと思っています。

ほん:
ソース原理を読みこなしていないかもしれないですが、1人の人間が固定化されるイメージが強いかもしれないです。
組織になったら多種多様な問題にが出るにも関わらず最終判定者が固定されるように見えてしまう。また、最初に始めた人がそうなるというのも、悩ませますね。言ったもん負け文化がある日本だとより「起案」に慎重になってしまうというか。
どの問題にもランクはあって、AさんよりBさんの意見の方が優先されるのは自然ながら流動性が落ちることには敏感なのかも。

ヒエラルキーという言葉もピラミッドの動かないイメージが強いのもあるかもしれないですね。

Sat:
そうですね・・・ティール組織といえども、例えばビュートゾルフで、今でも設立者のヨスの存在がなければあり得ないとされるのも、ソース=1人の人間と解される所以ですよね。
手放す経営ラボラトリーで考えた時、ばんちゃんがやーめた、となったら手放す経営ラボラトリーという形はやはり終焉を迎えるんだろうな。
でもそこにはすでにいろんな芽があってこのevOrgが始まったように、新たなソースが生まれて組織が立ち上がっていくんでしょうね。
それって終焉を迎えていない今の時点でも、私たち一人ひとりがソースを握っているということにもならないのだろうか。禅問答のようになってきましたが、ソースってある意味天皇のような存在というか、始まった時点である意味権威性・正当性を孕んでしまうものなのかもしれない。けれど天皇って実権を握っているかというとそうではなくて、執行権は違うところにあるんですよね。
助言プロセスという仕組みだけでなく、一人ひとりがある意味自分の生きるクリエイティブフィールドのソースを潜在的に持っているという意識がある状態・カルチャーが作られれば、ソースは結局一人の人間か、というところに絶望する必要はないんだと思います。

けいた :
1/22のばんちゃんのメルマガのここの文章とも通づるものがありそう。

ふたつめは、「今日斬り」を一緒にやっている由佐美加子さん(みぃちゃん)と収録後に話をしている時のこと。

みぃちゃんがぽろっと

「コミュニティーって、基本的にはうまくいかないんだよね~。」

と、言ったんです。

みぃちゃん自身もいろいろなコミュニティーに属したり、ご自分でもいくつも作ってきているということで、実感がこもっていたんですけど、みぃちゃん曰く

「求心力と遠心力、どちらが強くなってもうまくいかない」

のだと。

求心力っていうのはリーダーのことですね。
リーダーの力が強くなるとトップダウンになる。

逆に、それを回避したい。自律分散的にしたい。
となると、遠心力が働いて、まとまりがつかなくなって崩壊してしまうんだと。

求心力が強過ぎる(ソースの存在感が強すぎる)と自律分散になりにくくて 遠心力が強過ぎる(ソースの存在感が薄すぎる)と中心不在で崩壊してしまう

ってことを言っているのかもなと思いました。

ソースの存在を薄く保ちつつ、WWHなどの言葉でソースの存在を補完できると バランスが取れるのではないかと思ってきた。

ティム:
分かります。そしてƒ自体のエネルギーや周波数が変化する以上、同じ場所にとどまること自体が不可能なようにも感じます。
仮に変化しないものを作るとしたら、言葉そのもの(単語)。しかし言葉の意味は柔軟に変化しても良い。

僕は、支出をうまく制御できないコミュニティを多く見てきて、支出を補うために変化してしまったのを何度も体験しています。
言葉が中心にあれば、今収支バランスがどうであれ、ソースの生活リズムがどう変化しても、続けられると信じています。

nagi:
なるほど、わかる氣がする。 アズワンは、その辺り人と人の優しさがあるんだよね〜。 みんながみんなを認め合って支えている間柄。 話し合い、対話の時間空間の量の為せることなのかな。

けいた:
>話し合い、対話の時間空間の量の為せることなのかな。
これはありそうですよね。
対話を繰り返していくことで、元々ソースの中にあったものが、いつのまにか自分の心にも移行している感じ。
RINGOプロセスの二循環の法則とも似てますね。誰かの意思がいつのまにか自分たちの意思になってる。


エヴォえもんによる要約

このスレッドでは、組織における中心(リーダーシップやソース)の役割と必要性について議論されているドラ。中心性が組織の機能やパフォーマンスにどのような影響を与えるのか、また、中心性の概念が組織成長と共にどのように変化するのかについての意見交換が行われたドラ。

俯瞰的考察

  • 組織における中心性は流動的であり、時間とともに変化する可能性があるドラ。

  • 一部の組織では中心性を意図的に薄め、分散型のリーダーシップを採用しているドラ。

  • 中心性の概念は文化的背景や組織の価値観に強く影響されるドラ。

補足事項

  • 組織の中心性に関する理論は多様であり、一概に「必要」または「不要」とは言えないドラ。

  • 中空構造や分散型リーダーシップなど、中心性を再考する様々なアプローチが存在するドラ。



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