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墓場珈琲店15。

「……」

口に栄養調整食品を口に運ぶ。右手側においた即席のコーヒーを手に取り、飲む。冷めきった食卓に、一人座った女。

その母親は、疲れ切っていた。
早い段階で夫に先立たれ、それと同時に生まれ長年面倒を見てきた娘も死んだ。故に痩せ細り、隈ができた、異様な見た目。

何も知らない人は、彼女を不審者としてしか認識できず、
事情を知っている人は彼女を避けた。

彼女は孤独だった。

天井の、静かに灯った薄暗い明かりを見、ため息をついた。
天井のシミを数えるような人生に成り下がったものだ、と自嘲した。

今の時刻、12:42。
カーテンを開けていないせいで、午前か午後かさえわからない。腹が減ればこうして簡単に栄養を補充し、とりあえず生きることだいたい4か月。

4カ月という月日は、娘が死んでからの期間に等しかった。
最初は簡単に流れた涙も枯れはてた。

ずっとこうしていた方が楽だろう。
デジタルの時計を見る。

5月9日の日曜日、今は午前12時40分。

壁掛けのアナログ時計がずれていたことに気付くとともに、ふと、何かせねばならないと彼女は感じた。
理由は説明できない。

彼女は立ち上がった。

顔を洗おう。

唐突にそう思った。
洗面所に映った自分の顔は、想像以上に悲惨だ。何の手入れもしていない上風呂に入るのも不定期なので、汚く──『醜く』と言った方が適切だろう──生気がない。

彼女はお湯を手ですくい、顔に当てた。
火傷しそうなほどに、熱く感じた。

今は面倒くさくなってやめたけれど、昔はぬるま湯で蒸らしてから顔を洗っていたな、と思い出した。
それと同時に亡き父親の顔も浮かんできたので、やめた。

顔を洗うと、幾分か顔がマシになったようだった。

さて、顔を洗ったはいいが、どうしたものか。
顔を洗うということは、外に出ようとしたということだ。しかし、今更どこに行こうというのだろうか。

大切な人が一人もいなくなった日から、仕事はやめた。
今は、限りある貯金に頼って生活しており、親戚などとの繋がりはないに等しい。娘の葬式にも、自分以外誰も来なかった。

つまり、今更外に出ても仕方ないということになる。にもかかわらず顔を洗った自分の行動に、彼女は困惑した。


でも、とりあえずは外に出よう。
必要最低限のバッグと財布を手に、彼女は玄関のカギを開けた。

外はやはり昼間だった。
少し涼しいくらいの澄んだ空気に、強い風。太陽の眩しさに目を細め、何か飛んできたかと思えば桜の花びらだった。

二重鍵の片方にだけ鍵をかけ、歩き出した。

2分もすると、太陽の明るさに慣れた。
車の走る音や風の温かみを感じれるようになった。

アスファルトを踏みしめる。
時々立ち止まって、深呼吸する。

理由も行くアテもなしに歩くと、小学校にたどり着いた。
今日は日曜日なので、伽藍洞である。自分も通った学校だったので懐かしく感じるとともに、娘を思い出して辛くなった。

ここじゃない場所に行こう。
彼女はまた歩いた。



そして、最後にたどり着いたのは自分の家だった。
帰ってきてしまった。
特に何か見たわけでもないのに。

でも、体は元気になっているような気がした。
家に籠ってばかりで忘れかけていた様々な感覚を、思い出せた。

今からでも、仕事を始めてみてもいいかもしれない。

そう思った時だった。

「おかーさん、これあげる!」

隣の家から、子供の声が聞こえた。
見ると、子供が母親にプレゼントを渡している。

瞬間、今日、どうして自分が外に出たくなったのか理解した。

毎年毎年、この日が彼女にとって、一番の楽しみだった。
不愛想な娘や、仕事で忙しい夫が、自分の為にプレゼントをくれる日。

すなわち、母の日だ。

ダメだ、このまま気分が落ち込んでいては。
もう少し歩こう。

彼女は首を横に振って、覚束ない足取りで歩き出した。
いくら歩けども、疲労感はぬぐえなかった。

やがて、大きな音が聞こえた。
何事かと思うと、目の前にバイクが迫ってきていた。
自分は今、車道に立っている。

注意散漫。

彼女は目を瞑った。
脳裏に走馬燈が過る。
その半分以上が、家族の映像だ。

わたしが死んだら、誰がわたしの家族を覚えていてあげるんだろう。

そんな思いは、大きなクラクションと鈍い痛みにかき消され、
儚く散っていく──


──と、思ったのに。

彼女の意識は、ハッキリしていた。

そして、なんで。
どうして、目の前に──

「……母さん」

娘がいるんだろう。

娘の手から、白い何かが滑り落ちた。
それは地面に落ち、黒い液体とガラス片となる。
コーヒーカップだった。

「どうしてここにいるの、かあさ……」

母は反射的に、彼女に背を向けた。
息をのむ音が聞こえる。

信じがたかった。
何かの幻覚、あるいは走馬灯かと思った。しかし意識はこの上なくはっきりしているし、目頭はこんなにも熱い。

「……ごめんなさい」

娘が謝った。

母親は「気にしなくていいの」とは言わなかった。

娘が何について謝ったのかはわからない。
コーヒーカップを落としたことに対してかもしれないし、生前重罪を犯したことかもしれない。あるいは、親より先に死んだことに対してかもしれなかった。

母は振り返り、彼女を抱きしめたい衝動にかられた。

疑問が頭を掠めた。

わたしが「別にいいの」と言って彼女を抱きしめたとして、それは親としてどうなのだろうか、と。
娘は日本という国に住んでいる国民として、許されざる罪を犯している。

それを、笑顔で許して。

母親失格ではないのだろうか。
これまでずっと会いたい、抱きしめたいと願ったが、それは果たして許される行為なのだろうか。

わからなかった。
もう一度会えるなど、夢でしかなかった。

「……母さん……」

娘の呼ぶ声に、母は振り返らなかった。
そして、そのまま目の前の扉をくぐろうとした。
ここがなんなのか、それさえ確かめずに。

どうせ、いくらリアルで鮮明でも、幻覚の類だ。
この意識が惜しくなってしまうより先に、自分で終わらせよう──

「……おい」

低い声と共に、背中を掴まれた。
彼女は肩を震わせた。

「珈琲店に来て、珈琲一杯も飲まずに店を出るとはルールがなってないな」

母は声を無視し、そのまま出ようとした。
どうせ幻覚。どうせ幻と言い聞かせながら。

今度は、強い力で肩を引かれた。

「聞いているのか?」

振りかえった。
そこには、眼鏡をかけた初老の男性が立っていた。

姿勢がよく、まっすぐ彼女を見据えている。少し皺のできた顔は峻厳で、所々白髪が混じっていた。

そこに娘の姿はなかった。

彼女は見間違えだったのか、と思い襟を正した。

「……なんですか?」
「ここは珈琲店だ。今日は代金はいいから、ゆっくりしてきな」

見渡すと、確かにここは喫茶店のようだった。
少し涼しい程度の室温に保たれ、壁は木製の落ち着きのある空間に、客が十数名。静かにマグカップの中の液体を啜っている。靄がかった窓の外には桜が咲いていて、花弁が散っていた。

さっき見た娘の姿は、やはり幻覚だったのだろうか?
それとも、バイクに轢かれたということ自体、不謹慎な冗談だったのか?

「適当な席に座んな、お客さん。じきに珈琲を提供するからよ」

彼は顎をしゃくって、四人用の席を指した。『適当な』とは言うものの、そこに座れという意思が滲み出ているようだ。

女性は、言われた通りの席に座った。
四人用の席に一人で座るのはいささか抵抗があったが、ほかにもそうした客がいたため正直に座った。

彼女は深呼吸をした。

どうして自分は、こんな喫茶店にいるんだろう。
まともな珈琲やお洒落な食事なんて、一体いつぶりだ。

少なくとも、娘が死んでからは、一度も望んで摂取したことはなかった。
だからこそ、自分がこんな場所にいるのが不思議だった。

そしてもう一つ不思議なことといえば、例の男だ。
『じきに珈琲を提供する』とはいったものの、ずっと彼女の近くに立っている。他に店員は見当たらないし、彼がコーヒーを作るはずなのだが。

「……なんで来ちまったんだい?」

件の男が口を開いた。
女性は、その「ちまった」という言い方に違和感を覚えたが、何も言わずに答えた。

「わかりません」と。

男は深く息を吐いた。

「珈琲は好きか?」
「好きです。昔は自分で挽いて飲んでいました」
「ほう。中々ツウだね」

彼は嬉しそうに笑った。
コーヒー好きと話すのが楽しいのだろう。

相変わらず、彼がカウンターの方に行く気配はなかった。
彼女は、彼が何かを待っているように感じた。どことなくソワソワしているように見えたのだ。


不意に、男が彼女のそばから離れた。

顔を下に向けていた女性は、やっとコーヒーの準備をするのかと思って、顔を上げた。
そして、驚いた。

彼女の視線の先には、ほかならぬ彼女の娘が立っていた。
手には、白いマグカップを握っている。

「……お待たせいたしました、どうぞ」

母は、困惑しつつも受け取った。
その痩せた白い手は、間違いなく娘の手だった。

娘が知らない男と一緒にコーヒーを提供してくるなんて、おかしな幻覚だ。
やっぱり、走馬灯の類か。
もはや、喪失感しか覚えない。

どうせ幻覚なのだから──


彼女はマグカップに口を付けた。

飲んだ。

一口。
すぐに嚥下する。

また一口。
今度は黒い液体を口の中で転がす。
やがて飲み下す。

母は上を向いた。
懐かしい味がした。

娘に作っていたコーヒー。
あの子は時折、「いらない」と言って飲まないこともあった。
けれど最期、彼女が死んだ日、彼女はきちんと一滴残さず飲んだ。

少し苦く、まろやかに甘くかおるあの味。
まるで一寸たりとも違わない、あの味だ。

「……」

彼女は隣を見た。
娘の姿がある。

「……ありがとう」

指の先端から、段々と光になって消えていく。
死の息吹だ。
娘が眼を見開いている。

「母さん……っ!」

変な話だが、彼女はその表情を見て安心していた。
娘はたぶん、大丈夫だ。
こんなに活き活きとした表情が、できるようになったんだから。

「元気にしてるんだよ」

こんな飲み物を、作れるようになったんだから。


女性が光となって消えたあと、
少女は静かに涙を流した。

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