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17 エーゲ文明

  • 前5300年頃:ギリシアのテッサリアの各遺跡にて、周壁や環濠が作られる。周壁はディミニに(諸説あり)、環濠はオッザキやアルギッサ、アラピなどに存在。また、ブルガリアから伝播したと思われる冶金術によって、銅製の武器が作られ、集落間の戦争が始まる

  • 前3200年頃:キュクラデス諸島などで、青銅器時代が始まる(エーゲ文明の始まり)。やがて青銅器はペロポネソス半島、そして中央ギリシアに伝わる

上図:前1250年頃のエーゲ海周辺

出典:『トロイア戦争』
  • 前3000年頃:小アジアにトロイア市が成立

  • 前2600年頃:ギリシア本土にヘラス文明が成立

  • 前2500年頃:エウボイア島にてマニカ遺跡が築かれる。ヨーロッパ最古の都市か。この時代の集落には城壁が伴うことも

  • 前2200年頃:アルゴス平野のレルナなどのギリシア本土、エーゲ海島嶼部の集落が破壊される。この時にインド・ヨーロッパ語系のギリシア人が北方から到来したか。なお、コロンナやアルゴス平野のヴェルヴァティでも集落が焼け落ちている

  • 前2200年頃:トロイア第2市が壊滅

上図:プリアモスの財宝の一部。トロイア第2市の遺跡から発見された

出典:NearEMPTiness, CC BY-SA 4.0 <https://creativecommons.org/licenses/by-sa/4.0>, ウィキメディア・コモンズ経由で
  • 前2000年頃:キュクラデス諸島の青銅器文化が終焉

  • 前2000年頃:クレタ島のクノッソスとファイストスに王の宮殿が建造される(クレタ文明の始まり。ミノア文明とも。担い手は民族系統不明)。これにやや遅れてマリアやカト・ザクロにも宮殿が出現。これらの宮殿には城壁がなく、外敵に対する警戒はみられない。クレタ人は小アジア南西部沿岸に浮かぶカソスなどの島々やミレトスなどの対岸に拠点を築き、エーゲ海南東部へ進出を開始。ロドス島のトリアンダなどにもコロニーを築いていたか。彼らは一時期ギリシアを支配し、シチリアにも植民地を築いていたとも。キュクラデス諸島はクレタ島の支配圏に組み入れられ、クレタ島の王はアテネから貢ぎ物を徴発させていたらしい(ピュロスやオルコメノス、テーベ、ミケーネに生まれた王朝も時として、クノッソスの宗主権を認めたか)。クノッソスが周辺の地域を支配しており、東部の諸都市とも戦いを展開していた

上図:ファイストスの円盤。絵文字が押印されている

出典:Olaf Tausch, CC BY 3.0 <https://creativecommons.org/licenses/by/3.0>, via Wikimedia Commons

上図:クノッソス宮殿。クノッソスの兵らは大盾を用いた。クレタ軍には王の親衛隊がおり、弓兵隊、槍兵隊も存在。戦車隊は予備軍であった。他にも強力な艦隊を保持していた

出典:Silar, CC BY-SA 3.0 <https://creativecommons.org/licenses/by-sa/3.0>, ウィキメディア・コモンズ経由で

上図:クレタ文明の関連図

出典:User:Bibi Saint-Pol, CC BY-SA 3.0 <http://creativecommons.org/licenses/by-sa/3.0/>, ウィキメディア・コモンズ経由で
  • 前1750年頃:クレタ島の諸宮殿が倒壊するも、後に再建される。中央の農民や山間部の諸王国でクノッソスに対する反乱が起きたか(地震の影響とも)。以後、クレタ文明は最盛期を迎える

  • 前1700年頃:ギリシア系のミケーネ人がギリシア本土に定住

  • 前1700年頃:キュクラデス文明がクレタ文明に統合される

  • 前1650年頃:ミケーネ文明最古の遺跡である円形墓域Bが築かれる(ミケーネ文明の始まり)

  • 前1628年頃:テラ(サントリーニ)島での火山爆発によって、アクロティリが火山灰に埋没する

  • 前1600年頃:ミケーネ文明の中心地が建設される(ミケーネティリンスピュロスなど)。諸都市には国王が存在し、彼らはギリシア語を話す人々であった。また、青銅の剣などを副葬品とし、戦車を重視するなど、ミケーネ文明では戦争に関わるものの比重が大きかった。ミケーネの周囲には道路が敷設されており、戦車の走行を目的としていたか。テッサリアにはイオルコス、中部ギリシアではオルコメノス、テーベ、アテネ、アルゴス平野にはミケーネ、ティリンス、ミデアなどが小王国の中心地として栄えた。ペロポネソス半島南西部のメッセニアではピュロス王国が発展している

上図:ミケーネ文明の関係図

出典:User:Alexikoua, User:Panthera tigris tigris, TL User:Reedside, CC BY-SA 3.0 <https://creativecommons.org/licenses/by-sa/3.0>, ウィキメディア・コモンズ経由で
  • 前1600年頃:この頃より以前に、ウィルサ(トロイア)がヒッタイトに服従

  • 前1600年頃:クノッソスの王がクレタ島を統一

  • 前1580年頃:クノッソス大宮殿の宝物が敵に荒らされる。また、この頃にはハギア・トリアダが実質的なクノッソスの植民地となっていた。クノッソスは各地に総督を派遣している

  • 前1500年頃:クノッソスを除くクレタの諸宮殿が再び破壊される

  • 前1500年頃:小アジア西部でアヒヤワ(ミケーネ人)が興隆。ヒッタイト帝国に対抗し、キプロス島でも軍事行動を展開。また、ウィルサ(トロイア)の問題にも干渉し続ける

上図:前1500年頃のアナトリア情勢

出典:『トロイア戦争』
  • 前1500年頃:クレタ島の人々(ケフティウ)がエジプトに朝貢

  • 前1500年頃:東地中海のクレタ人コロニーをミケーネ人が継承して支配

  • 前1460年頃:ヒッタイト王トゥトハリヤ1世が即位。彼は西方のアルザワ諸国(アルザワ、ハッパッラ、川の国セハ。セハはトロイアの南東)へ遠征を行い、エーゲ海にまで領土を拡大。しかし、帰途にて、西方諸国はアシュワ同盟(なお、アヒヤワはアシュワと政略結婚をしていたらしい)という22か国(トロイアも含まれる)から成る反ヒッタイト同盟を結成したが(アシュワの乱)、トゥトハリヤはこれに対して勝利し、アナトリア西部を征服(1万の歩兵などをハットゥシャに連行)。アシュワ王ピヤマ・クルンタらを捕らえ(彼の兄弟は援助を集めようとして失敗した)、その子クックリをアシュワ王として属国化。しかし、クックリが反乱を起こしたため、これを滅ぼす(アシュワの乱。これにミケーネ人が関与したか。このときにヒッタイトがアナトリアのエーゲ海沿岸沖の島々を占領したと思われる)。また、トゥトハリヤの治世に、アヒヤワの支配者(軍事的指導者か)アッタリッシャに襲撃され、王位を失ったルッカ(リュキア)の王マドゥワッタがトゥトハリヤの宮廷に保護を求めたため、王は彼を山岳地帯のジッパスラ王としている(アルザワを侵略することを条件とした)。なお、アッタリッシャはアナトリア西海岸にてヒッタイト軍と交戦した(ヒッタイト側は100台もの戦車を投入したという)。この後、マドゥワッタはアルザワを襲撃したが、その王クパンタ・クルンタの反撃によって、ジッパスラを喪失。トゥトハリヤによって再びマドゥワッタはジッパスラの王位を回復したが、アナトリア西海岸にてアッタリシャの襲撃を受ける(ヒッタイト側は100台もの戦車を投入したという)。そこで、ヒッタイト軍は将軍キスナピリ率いる援軍をジッパスラに救援に送り、そこに常駐させた。しかし、この後にマドゥワッタはアルザワ王と結び、他の侯国を扇動してヒッタイトに反乱。キスナピリも欺いて殺害し、アルザワ王クパンタ・クルンタの暗殺を謀り、その王女と結婚してアルザワ王となった。マドゥワッタは次に、アッタリッシャと結び、ヒッタイト傘下の独立国アラシヤ(キプロス島)に侵攻

  • 前1450年頃:ギリシア人(アカイア人、ミケーネ人)がクレタ島に侵入して支配下とし、クノッソスを支配。ミケーネなどのギリシア本土のギリシア人はすでにクレタに進出していたか。彼らの海外進出はクレタ人のそれを上回っており、東地中海を制覇

  • 前1450年頃:ファイストス、ハギア・トリアダ、ティリッソスの宮殿が破壊される。アカイア人による侵略か、クレタ島民の反乱であったかは不明

  • 前1440年頃:ヒッタイトがカシュカ族の侵攻などで衰退

  • 前1400年頃:ミケーネやティリンス、ピュロスなどに堅固な城塞をもつ宮殿が築かれる(~前1300年頃。ミケーネ文明の最盛期)

上図:ミケーネ時代の兜。猪の牙をはめ込んである

出典:Wikipedia
  • 前1400年頃:クノッソスの宮殿が破壊される。先住民のクレタ人によるアカイア人(ミケーネ人)に対しての反乱か、大地震が原因であった。この後、グルニア、プセイラ、ザグロス、パレカストロなどクレタ島の諸都市が次々と崩壊。結果、ミケーネ人は撤退した

  • 前1400年頃:ドーリア人がエペイロスと南西マケドニアから進出。彼らはアカイア人に服従し、軍事行動にも加わる

  • 前1350年頃:ヒッタイト王シュッピルリウマ1世が即位。彼の治世に、ヒッタイト人がアヒヤワ人に戦車の操縦法を教えている

  • 前1323年頃:シュッピルリウマ1世がミタンニを攻撃し、属国化。アナトリアの覇権も掌握

上図:ヒッタイト帝国の版図

出典:Near_East_topographic_map-blank.svg: Sémhurderivative work: Ikonact, CC BY-SA 3.0 <https://creativecommons.org/licenses/by-sa/3.0>, ウィキメディア・コモンズ経由で
  • 前1320年頃:アルザワ王ウハジティがアヒヤワ王(アヒヤワの勢力は小アジア西岸の島々にまで及んでいた)及びミラワタ(ミケーネ人最大の拠点ミレトスか)と組み、ヒッタイトを攻撃。ヒッタイト王ムルシリは兄のシャッリ・クシュフ(カルケミシュの副王)とともにアルザワ軍を破り、アルザワの住民らを強制連行。アルザワ国の都アパサ(後のエフェソス)を攻略した。ウハジティは沿岸の島に逃亡し、亡命中に死去。これにより、ハパラやミラ、川の国セハ(王はマナパ・タルフンタ)といったアルザワと同盟を結んでいた国々はヒッタイトに服属。ムルシリはミラ・クワリヤをマシュフイルワに、川の国セハとアッパウィヤ両地域をマナパ・タルフンタに、ハパラをタルガシュナリに与える。更にミラワタも占領したことで、アナトリア西部をヒッタイトが掌握。翌年も西方遠征が行われている。なお、アヒヤワはこの後もヒッタイト領に干渉を続ける

  • 前1316年頃:ヒッタイトがミラワタをアヒヤワから奪還。ミラワタは占領・破壊された

  • 前1300年頃:この頃までに、ムルシリ2世がアルザワ王を放逐

  • 前1300年頃:トロイアが地震で壊滅。後に再建

  • 前1300年頃:ギリシア本土でテーベが繁栄したか。テーベはこの頃、ギリシア最大の国であったとも

  • 前1294年頃:ヒッタイト王ムワタリ2世が即位。ムワタリの治世当初には、西方でピヤマラドゥ(かつて放逐されたアルザワ王の孫か。ミラワタの王女と結婚したという)がヒッタイトの属国ウィルサ(トロイアか)を支配下に置く。これに対し、ムワタリは属国のミラ及び川の国セハの助けを得てピヤマラドゥを追放、アラクサンドゥをウィルサ王に据える。ピヤマラドゥはアヒヤワ人らに匿われた。なお後に、川の国セハの王マナパ・タルフンタは、おそらく反逆者ピヤマラドゥの攻撃を受けて王位を失い、息子と思われるマストゥリが後を継ぐ(ムワタリがマナパ・タルフンタを排したとも)

  • 前1280年頃:ウィルサのアラクサンドゥがヒッタイトに敗れ、ヒッタイト王ムワタリとの間で相互防衛協定を締結。この協定以前に、ムワタリはウィルサを敵から防衛したという

  • 前1272年頃:ヒッタイト王ムルシリ3世が即位。ムワタリ2世の晩年にはエーゲ海沿岸のヒッタイト領はアヒヤワ国によって不安定となっていた

  • 前1264年頃:ハットゥシリがムルシリ3世との争いに勝利し、ヒッタイト王に即位(ハットゥシリ3世)。ムルシリは北シリアの属国ヌハッシェに亡命したが、アヒヤワ国やアッシリア、カッシートの支援で反乱を図ったために別の場所(キプロス島か)に送られる。一方、ハットゥシリはアナトリア南部で発生した反乱を鎮圧すべく、アナトリア南西部のルッカの国々に遠征。ピヤマラドゥは反乱軍に対してアヒヤワ王の兄弟タワガラワのいるミラワタ(アヒヤワの保護領)への逃亡を促し(タワガラワは反逆者をアヒヤワに送り込む手助けをしていた)、ヒッタイトに忠実なルッカの人々を追放。なお、ルッカの国々はトロイアの最も親密な同盟国であった。ハットゥシリはピヤマラドゥ軍をイヤランダで破り、ピヤマラドゥの義理の息子アトパの治めるミラワタを占領。ピヤマラドゥはアヒヤワ王の保護下に逃亡し、ヒッタイト領のアナトリアへ襲撃を続ける。なお、アヒヤワ王はピヤマラドゥの引き渡しを拒否したか(ヒッタイトとアヒヤワはウィルサを巡り対立があったが、すでに解決していた)

  • 前1250年頃:伝説では、モプソス(クレタ人を祖とする)がエーゲ海域、トルコの南岸・西岸、地中海東岸(カナーン)の集団を統合。この集団にはペリシテ人やチェケル人(トロイア人)もいたか

  • 前1250年頃:「海の民」の大移動が始まる

  • 前1250年頃:ミケーネ、ティリンスのキクロペス式の城壁が大拡張され、ミケーネの「獅子門」の建設が行われる

上図:ミケーネの獅子門。ヒッタイトの石造建築技術を取り入れた、キクロペス様式という石組みでできている

出典:David Monniaux, CC BY-SA 3.0 <http://creativecommons.org/licenses/by-sa/3.0/>, ウィキメディア・コモンズ経由で
  • 前1240年頃:ヒッタイト王トゥトハリヤ4世が即位。当時、アヒヤワの代表者タルカスナワはヒッタイト王によって退任させられたらしい。トゥトハリヤの治世にはウィルサ王ウァルムが敵勢力(正体不明)の攻撃によって追放されたが(ミラの王のもとに逃亡)、トゥトハリヤはこれを復位させ、傀儡とした。このとき、ワルムを保護していたミラ王タルカスナワがこれに協力したため、ミラがウィルサに対して部分的な宗主権を獲得している。また、トゥトハリヤはアッシリアに敗北したことを受けて、アヒヤワの船がアッシリアと交易しないよう、アムル王サウスガムワに圧力をかけ、ウガリトとアムルにはアッシリアへの経済封鎖を命じた。また、トゥトハリヤはルッカの国々に遠征し、勝利したと主張するが、アナトリア南西部は無政府状態に。ウィルサも政情不安に陥っている。なお、この頃にはアヒヤワの艦隊がシリア海岸に出没し、アヒヤワ王アッタリシャがヒッタイト領への侵攻を開始

上図:ヒッタイト帝国末期の版図

出典:『ヒッタイト帝国』
  • 前1230年頃:トロイア第7a市が破壊される。襲撃はミケーネ人によるとも、「海の民」によるとも。伝承では、ギリシア連合軍がトロイアを攻撃し、10年間の包囲戦の末に陥落させたという(トロイア戦争)。この戦争で敗れた人々が後に難民となってエジプトなどに殺到したか

上図:トロイア遺跡。この頃の戦車は4本のスポークで2頭立てのものであった。これに乗って戦ったという。なお、この次の時代である鉄器時代にはスポークは8本、4頭立ての戦車となったが、戦闘用ではなく、移動用のものとなった。青銅器時代の武器としては、一本の長槍を用いていた(鉄器時代は2本の長槍を投擲して用いた)

出典:CherryX per Wikimedia Commons, CC BY-SA 3.0 <https://creativecommons.org/licenses/by-sa/3.0>, ウィキメディア・コモンズ経由で
  • 前1225年頃:ギリシア本土にあるミケーネ人の宮殿の破壊が始まる。攻撃を受けたか

  • 前1200年頃:キプロス島のエンコミ、キティオンなどの沿岸都市が破壊される。この後、都市は再建されるが、担い手はミケーネ人であり、彼らは「キクロペス式城壁」(ミケーネ、ティリンスの宮殿の様式)をもつ都市を築く。ミケーネ人はギリシア本土の混乱から逃れてきたか

  • 前1200年頃:ピュロスやイオルコスの王宮などが破壊され、ミケーネ文明が崩壊。ピュロスの宮殿炎上の直前には、軍隊が海岸地域に配備されていたが、外敵の侵入によってミケーネ文明の諸宮殿は炎上。外敵の候補としては「海の民」が考えられている一方、国内の対立や反乱を原因とする考えもある

  • 前1200年頃:ドーリア人が南下。クレタ島にも侵入し、クノッソスなどの都市を破壊。アカイア人とクレタ人はカルフィの地などに避難したという。ドーリア人は鉄剣を使用しており、青銅の剣を使用していたアカイア人に勝利した形となる。ドーリア人は古くからの住人を奴隷もしくはペリオイコイ(劣格市民)とした。クレタ島にはゴルテュン、イタノス、エレフテルナといった小国家が誕生

  • 前1190年頃:ハットゥシャが放棄され、ヒッタイト帝国が滅亡

  • 前1175年頃:東地中海沿岸で行われた破壊活動が終焉。結果的にヒッタイト、キリキア、アルザワ、アラシヤなどが崩壊

  • 前1120年頃ドーリア人がギリシア本土に侵入。海から進出し、中央ギリシアから陸路でペロポネソス半島にも進出。一方で、テーベのカドメイア、アテネのアクロポリスはこのドーリア人の襲撃を免れた。襲われた人々はエーゲ海の島々や小アジアに逐われて、砦を建設している。アカイア人はアテネを経て、トルコの西海岸に移住。イオニアやアイオリスという地方を形成した。また、ドーリア人もイタリア、シチリア、小アジアに植民地を建設している

  • 前1100年頃:トロイア市が地震、あるいは敵の襲撃によって破壊される

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