25 エジプト撤退後のクシュ王国
前671年:アッシリア王エサルハドンがエジプトを征服。クシュ王国(エジプト第25王朝)のタハルカ王はナパタに逃亡した。エサルハドンはサイスのネカウ(ネコ)1世にエジプトの自治を許す。後にタハルカはエジプトを奪還
前667年:アッシリア王アッシュルバニパルがエジプトに侵攻し、メンフィスを占領。再びタハルカ王を南に追いやり、タハルカはナパタにまで逃れた
前664年:アッシュルバニパルがエジプトに再び侵入
前664年:タハルカ王が死去し、共同統治者であった従兄弟のタヌタマニ(タヌトアメン)王がナパタで即位。彼はアッシリア軍撤退後のエジプトに侵入し、アスワンとテーベを奪回。更にメンフィスのアッシリア軍と対決し、メンフィスをも奪回した
前664年:ネカウ1世が死去し、リビア系エジプト人のプサメテク1世がサイスにて即位。エジプト第26王朝が成立。以後、エジプト末期王朝時代となる
前663年:アッシュルバニパル王率いるアッシリアがメンフィス及びテーベを攻略。アッシリア帝国が全エジプトを支配。タヌタマニはナパタに撤退した。この侵攻の際に、テーベが略奪され、アメン大神殿が破壊されている。以後、アッシュルバニパルはエジプトの管理をプサメテク1世に委ねる
前656年:タヌタマニが死去し、エジプト第25王朝が終焉。しかし、クシュ王国はヌビアを支配し続ける
前656年:プサメテク1世が娘のニトクリスをテーベの「アメン神の聖妻」シェペンウェペト2世の養女とし、次の「アメン神の聖妻」とする。これにより、上エジプトとテーベを支配下とし、第26王朝がエジプト全土を統一
前655年:プサメテク1世が、リディア王ギュゲスやイオニア人傭兵らの援助を受け、アッシリアより独立を達成
前593年:エジプト第26王朝のプサメテク2世がクシュ王国に対して遠征。第3急湍付近にまで進軍した。おそらくこれが原因で、クシュ王国は首都を第5急湍より南のメロエへと移す(以後のクシュ王国はメロエ王国とも呼ばれる)。なお、クシュ王国がブラック・アフリカに製鉄の技術を伝えたとする説もあるが、確証はない。下ヌビアはクシュ王国に属しながら、半ば自治的な状態となる。また、プサメテクはすべての記念碑からヌビアのエジプト支配者の名前を削除させている
前525年:アケメネス朝ペルシアのカンビュセス2世がエジプトを征服(エジプト第27王朝の成立)。カンビュセスはエチオピア(クシュ)遠征を企てるも、道中で食糧不足により、兵士らの間で互いに人肉を食い合う悲惨な状態となって失敗
前486年頃:アケメネス朝がギリシアとのマラトンの戦いで敗北したことを受けて、エジプトがペルシアに反乱
前460年:アテネ艦隊の援助を得たエジプトがペルシアに反乱(~前454年)
前415年:エジプトがアケメネス朝ペルシアに反乱
前404年:エジプトのアミュルタイオスがスパルタの援助を受け、アケメネス朝ペルシアから独立(エジプト第28王朝)
前343年:エジプト第30王朝のネクタネボ2世がペルシア王アルタクセルクセス3世の侵入を受け、エチオピア(クシュか)に逃れる。これにより、アケメネス朝がエジプトを併合(エジプト第31王朝)
前332年11月頃:マケドニアのアレクサンドロス3世がエジプトの軍事拠点ペルシウムに入る。サトラップ(知事)のマザケスは抵抗せずに降伏し、アレクサンドロスがエジプト全域を掌握
前330年7月:ペルシア王ダレイオス3世が殺害され、アケメネス朝ペルシアが滅亡
前323年6月10日:アレクサンドロス大王が死去
前321年:アレクサンドロスの部将らが抗争を始める(ディアドコイ戦争の始まり)
前305年:アレクサンドロスの部将であったプトレマイオス1世がエジプトにプトレマイオス朝を創始。プトレマイオス朝や後のローマ帝国は傭兵、警備隊、砂漠の遠征の案内などにブレンミュエス族を用いる。ブレンミュエス族とはナイル川の東方山岳砂漠地方に住む幾つかの種族の総称
前278年:エジプトのプトレマイオス2世が紅海・ナイル川上流地域を踏査させる
前248年:クシュ王エルガメネスが即位。彼はヌビアのアスワンからタコンプソまでの地域(ドデカスコイノス)を所有。このドデカスコイノスがクシュ王国の北辺であったが、プトレマイオス朝がここを保護領としていたとも(周辺にはクシュ王とプトレマイオス諸王による共同の建築の神殿も)
前48年10月:ローマの将軍カエサルがエジプトのアレクサンドリアに上陸。彼はプトレマイオス朝のクレオパトラ7世とプトレマイオス13世の内紛を調停するも、結果的にプトレマイオス13世側との戦闘に発展(アレクサンドリア戦役の始まり)
前47年:プトレマイオス13世がカエサル軍との戦いで敗死(アレクサンドリア戦役終結)。クレオパトラ7世がプトレマイオス14世とともにエジプト王となる
前40年頃:クシュの女王カンダケ(カンダケとは人名ではなく称号か。アマニレナス女王かアマニシャケテ女王のどちらかのことだと考えられている。隻眼であったという)が3万の軍でエジプトに侵入。フィーレ、エレファンティン、シェーネ(アスワン)を占領
前30年8月3日:ローマのオクタウィアヌスがアレクサンドリアを占領
前30年8月30日:オクタウィアヌスがエジプトのファラオとなり、エジプトを私有財産とする。これにより、プトレマイオス朝が滅亡。ローマ時代にはタフィス(ターファ)に、異民族から防護するための城塞が築かれる
前27年1月16日:オクタウィアヌスが元老院からアウグストゥスの尊称を受け、事実上の帝政を開始(ローマ帝国)
前23年:ローマ軍のエジプト総督ガイウス・ペトロニウスがヌビアのプセルキス(ダッカ)にて、カンダケの軍を破りナパタにまで侵攻。この侵攻の際にイブリーム(プリミス)を攻撃し占領。カンダケ女王はアウグストゥスに和議を申し入れ、ローマはドデカスコイノスを確保した。ローマ軍は撤退時にプリミスを本格的に築城し、4000の軍隊を駐屯させる。またローマ時代にはダッカの神殿に軍隊が駐屯したという。この後、ローマ軍はヒエラ・シカミノス以北に撤兵し、クシュ王国が再びプリミス(メロエ語でシュマレか)を占拠。こうした一連の戦いの結果、クシュ王国は独立を維持するも、大打撃を被る形となった。以後、下ヌビアの地方豪族は半ば独立状態となる(クシュを宗主国としながら小国が分立。カラノグなどはその有力な小国の一つ)
9年頃:クシュ王国にてナタカマニ王が即位。彼は旧都ナパタの復興を進め、王国の再建を図る。以後、クシュ王国は最盛期を迎えた
54年:ローマ皇帝ネロが即位。彼はナイル川を遡り、ヌビアにまで遠征隊を派遣
70年頃:エチオピア高原北部の都市国家アクスムが王国に発展(アクスム王国)。担い手はイエメン地方から紅海を渡って移住してきたセム系の人々であったという
100年頃:クシュ王国が衰退。過剰放牧と森林伐採による環境破壊が要因であったか
250年頃:この頃からブレンミュエス族がローマ領のドデカスコイノスに侵入(~297年)。プリミス(ローマ領の最南部)などを攻撃し、カラノグを占領したという。ブレンミュエス族は250年から550年までの間にヌビアに定着したが、政治的中心地はバッラーナおよびクストゥルの付近であった
253年頃:クシュ王テキルアマニ(テキリデアマニ)の使節パスムンがローマ側と交渉
261年頃:テキルアマニの使節パスムンが再びローマ側と交渉
269年:パルミラ王国の女王ゼノビアがローマ属州のエジプトに進軍し、支配下に置く
272年:ローマ皇帝アウレリアヌスがパルミラ王国を滅ぼす
272年:アレクサンドリアでギリシア人のフィルモスが反ローマの蜂起。更に上エジプトでは住民の反乱が発生。これらの状況に呼応するかのように、ブレンミュエス族は反乱したエジプト人の支持をうけて、上エジプトを占拠。これに対し、アウレリアヌス帝の将軍プロブスが侵入軍や反乱を平定
276年:ブレンミュエス族が再びローマ領に侵入、ローマ軍が反撃
280年:ローマ皇帝プロブスがエジプトに侵入してきたブレンミュエス族を撃退
284年:ローマ皇帝ディオクレティアヌスが即位。彼は軍隊を引き連れてナイル川を遡る
297年:ディオクレティアヌス帝がドデカスコイノスを放棄。前線をエレファンティン島(アスワン)にまで後退させる。コプトス在住のエジプト商人らを中心とする上エジプトの大規模反乱が原因だったか。この後退の際に、オアシスのノバタエ人をドデカスコイノスに植民し、ブレンミュエス族にあたらせる。結果、ヌビアは北からノバダエ、ブレンミュエス、クシュ王国(メロエ王国)に分割される
333年頃:アクスム王エザナがキリスト教に改宗
350年頃:アクスム王エザナがクシュ王国を滅ぼす
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