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『デウス・エクス・マキナ』は生まれ続ける

注:この記事は、クトゥルフ神話TRPG『デウス・エクス・マキナは死んだ』(作:茶鰯様)の内容を多分に含みます。シナリオ通過中の方・通過予定の方・将来通過したい方は、ネタバレになりますのでブラウザバックを強く推奨します。
また、この記事は筆者独自の解釈・考察が多く含まれています。解釈不一致な方からの建設的な意見・反論は大いに構いません。ぜひ語り合いましょう。







準備はできましたね?







ここから先は本当にネタバレですよ?








さあ、始めましょうか。


そもそも「デウス・エクス・マキナ」とは

本シナリオにおいて、「デウス・エクス・マキナ」は以下のように定義されている。

古代ギリシアの演劇において、劇の内容が錯綜してもつれた糸のように解決困難な局面に陥った時、絶対的な力を持つ存在(神)が現れ、混乱した状況に一石を投じて解決に導き、物語を収束させるという手法を指した。悲劇にしばしば登場し、特に盛期以降の悲劇で多く用いられる。俗に言う「夢オチ」などもこれに含まれる。

茶鰯, 『デウス・エクス・マキナは死んだ』, 2020年, pp.40-41

おそらく、「盛期」は「紀元前5世紀」の表記ミスだと思われる。コトバンクの『デウス・エクス・マキナ』の項では、ギリシャ三大悲劇詩人の一人であるエウリピデスが好んで用いたとの記述があり、彼が生きたのが紀元前5世紀であるというのがその根拠である。

脱字の話はさておき、物語の最後を強制的に終わらせるような、ストーリーの流れをある種超越した存在が、原義でのデウス・エクス・マキナである。ギリシャ悲劇以外でもこの仕組みは用いられ、例えばシェイクスピアの戯曲『真夏の夜の夢』では、複雑になった男女四人の恋愛事情を妖精の王・オベロンの魔法で解決させており、これもデウス・エクス・マキナの一例と言える。

さて、このような劇を閉じるための舞台装置が、なぜ「機械仕掛けの神」と呼ばれるのだろうか。それは、唐突に出現する、主人公らとは一線を画した存在が神と同一視され、劇作家という人間の手によって生み出されたことが機械と同一視されるからである。

シナリオ冒頭のモノローグにおいても、機械仕掛けの神が人の手によって生み出された、あくまでも舞台装置であることが強調されている。

――信仰、崇拝あるいは、教えや神話など、この世界には様々な神の話が伝えられ、そしてそれを人間は崇め続けてきた。
しかし、それは人間が作り上げた名前と逸話である。
本当の神など、存在しているかなど誰も知らない。

茶鰯, 『デウス・エクス・マキナは死んだ』, 2020年, pp.24

(もっとも、神という存在は人間の信仰によって成り立っているものであるという考えがこの独白の本旨であると思われる。)

ここで、舞台装置としての「デウス・エクス・マキナ」という手法を簡潔にまとめると、以下のように定義できる:

  1. 劇の展開が行き詰まってしまうこと

  2. 話の脈絡に関わらなかった存在が、劇の最終盤で突如出現すること

  3. その存在が、劇の幕引きに貢献すること

翻って、本シナリオにおいても、いくつかのデウス・エクス・マキナが登場している。これらは、とある人物の一生を題材とした劇の幕引き役としての活躍をしており、『デウス・エクス・マキナは死んだ』は3人の超越存在によって幕が下ろされる物語だと言えるだろう。

機械仕掛けの神としての「デウス・エクス・マキナ」

本シナリオでは、HO2「ヒト」は、自分たち神に崇拝を捧げる人類を愛おしく思い、自らをも人に変貌させたいという欲望に駆られる。そして、白毛の狂信者(HO1「カミ」の父親)によって発見され、「デウス」の名を冠されることとなる。一方、HO1は、デウスと同一の存在を作り出そうとする実の父に利用され、機会人形に改造される。そして、「エクス・マキナ」と名付けられた後、モニターのある部屋で人類の映像をひたすら見せられることになる。

神でありながら人の姿への変質を望んだ「デウス」と、元は人でありながら機械化され、神に近づけられた「エクス・マキナ」。この二人は、全てを解決する機械仕掛けの神の役を背負わされているわけだが、では一体誰がこの劇の主人公なのだろう。

それはもちろん、HO1の父たる白毛の男である。

「星の創り手」に所属する中、人の手で神を生み出すという途方も無いプロジェクトに明け暮れた彼の日々を救ったのは、未発見であった神=「デウス」に他ならない。そして、白毛の男は自らがデウスの初めての崇拝者になるという目的のために、人工の神=娘=「エクス・マキナ」の開発に着手する。その過程で正気を失い、最後はアザトースによって存在を抹消されてはいるものの、彼の人生は確かにデウス・エクス・マキナが出現する劇のフォーマットを踏襲しているのである。

ここで、演劇におけるデウス・エクス・マキナを定義する三つの要件を再確認しよう。

  1. 劇の展開が行き詰まってしまうこと

  2. 話の脈絡に関わらなかった存在が、劇の最終盤で突如出現すること

  3. その存在が、劇の幕引きに貢献すること

これら三条件を彼の人生に当てはめて考えていく。

まず、「星の創り手」での彼の人生は確実に行き詰まっていた。人工の神という飽くなき目標は長らく達成されることはなかったのだろう。シナリオでは直接描かれていないものの、研究成果の上がらない現状に白毛の男が閉塞感を抱いていたとしても不思議ではない。これが、条件1を的確に満たしている。

次に、条件2について。人工の神の開発が難航する中で彼が接触したデウスという存在は、人類が未だかつて触れてこなかった、いわば唐突に出現したものである。言い換えると、デウスは、行き詰まりが否めない男の人生に突如現れた異邦人であると言えるだろう。

最後に条件3について。人工の神を作るという男の本来の目標は、いつしかデウスの最初の崇拝者になるという別の目的にすり替わっている。しかし、その目標に向けて邁進し、最後は神との接触を試みることに成功した彼の人生は、文字通り終焉に向けて歩んでいくこととなる。デウスとの接触をきっかけに、「白毛の男」という演劇は確実にクライマックスへと向かっているのである。

そして、エクス・マキナもまた、男の人生を最後の盛り上がりへと押し上げる存在である。本来人であった存在を無理やり機械化させ、神の領域へ至らせようとした男の計画は、文字通りデウス・エクス・マキナ=機械仕掛けの神を建造するのが趣旨であった。そして、そのプロセスが難航したことを理由に、我慢しきれなくなった男はデウスへの直接の接触を試みる。つまり、エクス・マキナが完成しなかったことが、男の人生の終わりに直結しているのである。

これらの要素から鑑みるに、デウスは、男にとっての揺るぎないデウス・エクス・マキナである。また、男の計画によって生み出されたエクス・マキナの方は、条件2は満たさないものの条件3を満たす、いわば劇中人物サイドのデウス・エクス・マキナである。

主人公としての「デウス・エクス・マキナ」

このシナリオの主人公が誰かと聞かれれば、それは当然HO1と2だろう(異論は認める)。一方は自らの本質を追求し、もう一方は人間としての実存に手を伸ばした。形は違えど自らの人間性を問う、究極の目的が一致する二人の物語を、この空間で起こった過去の事象を交えながら描いた作品が『デウス・エクス・マキナは死んだ』なのだ。

この二人の物語を劇に見立てた時、最後に全てを解決する機械仕掛けの神の役を担ったのが、「機械人形」ことチクタクマンなのだろう。

シナリオ開始時点においては、デウスもエクス・マキナも、人間として生まれ変わったり、自分が人間であることを確かめたりするという、それぞれの目標を達成できない諦観に浸っているキャラクターである。これは、前述の条件1を満たしている。

そして、デウスとエクス・マキナ、それぞれの人生を振り返るために用意された5つの部屋を二人が巡るうちに集めた歯車によって、機械人形は目覚めることとなる。シナリオ序盤から存在自体は示唆されていたものの、その性格や劇中での役割が明かされていなかった機械人形の予想外の出現は、条件2を的確に満たしている。

最後に、True Endにおいては、二人の目標=人間になるという夢を確認した後、機械人形は自らの存在を賭して、二人を人間へと変えてくれる。また、他のEndにおいても、片方だけ人間になれたり、存在ごと消滅させられたり、アザトースの宮廷で音楽を奏でる神になったり、どのような形でアタとしても二人の目標は終わりを告げることになる。つまり、どのような展開になろうと、人間になれないという行き詰まりを抱えた二人の人生は、急に現れた機械人形によって解決されるのだ。

二人の人生という名前の戯曲に一段落をつける機械人形の存在は、正しくデウス・エクス・マキナなのだ。人間によって生み出された機械に、千の貌を持つ神が宿っている、機械仕掛けの神であるというその事実も含めて。

機械仕掛けの神は三度死ぬ

『デウス・エクス・マキナは死んだ』というタイトル。ここで死んだとされる主語=デウス・エクス・マキナは誰を指しているのだろうか。私は、「デウス」「エクス・マキナ」そして「機械人形」の主要人物三名全員を指していると考えている。

前提として、以前のパラグラフで説明した通り、これら三名はおしなべてデウス・エクス・マキナである資格を満たしている。その上で、True Endの最終版において、三名全員が神性を放棄している。

デウスは、本来アザトースの宮廷で音楽を奏でるという神としての職務を放棄し、崇拝者としての人間に生まれ変わった。機械の体のままデウスと同一の存在に押し上げられそうになった半神であるエクス・マキナもまた、新たな世界においては人としての生を謳歌している。そして、機械人形=チクタクマンもまた、寵愛していた神=デウスを勝手に人間にした罪を問われ、アザトースの手によって消滅させられる。

これら三名全員の神としての死が、タイトルをより際立たせるトリプルミーニングとして働いているのだ。

最後に

このシナリオに関して書き残したことは山ほどある。自陣の展開についても話したいし、被験体07番と白衣の男性には訪れなかったデウス・エクス・マキナについても語りたい。なにより、資料として出てきたシュレーディンガーの猫については一家言あるので、これについても詳しく触れたい。しかし、このどれもが文章全体の論旨から逸れるため、今回は割愛することにした。

現代のTRPG同人シナリオにおいて、デウス・エクス・マキナの技法は多用されている。私はその是非を論じるつもりはない。たとえ、かの漫画家・手塚治虫が夢オチを嫌い一度も用いなかったとしても、あくまでデウス・エクス・マキナを使うかどうかはシナリオライターの手によって委ねられているからだ。そして、物語全体を救済する存在を自らの手で作り出す、正に機械仕掛けの神を構築することは、シナリオライターに与えられた特権なのである。

皆さんも、デウス・エクス・マキナの役目を担った存在が登場するシナリオ、あるいは小説や映画などの芸術作品に触れた際は、それが誰の人生=物語を救済する存在なのか、一度考えてみてほしい。シナリオへの解像度が一段と深まることだろう。

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