本物の前世記憶なら、「貴族」のイメージは1%程度に過ぎない

『死後を生きる』読書メモ、続きです。

この記事には少々本のネガティブな感想が含まれます。
敬愛する松村潔先生の本について批判めいたことを書くのは、正直辛いです。心が折れそう。でも、書かねばならないことは書きます。

〔筆者ブログからの転載です。元記事https://ksnovel-labo.com/blog-entry-171.html

本物の前世記憶に「誇大妄想」はあり得ない


この本の中で最も「そんなことないですよ!」と言いたい箇所が、こちらでした。

精神は壮大な世界に馴染みやすく、等身大の地味な生活をしている自分像を捨てて、もっと意味のある大きな話の自分像を見ることになる。これはほとんど誰でもそうなる。なぜなら、魂魄の魂の部分は個人ではなく、いわばコードなのである。よく前世の話を批判する人は、前世の姿はたいていお姫様、殿様、偉人、有名な人ばかり出てくるということを指摘するが、魂の部分に焦点を当てると、そもそもそういうものなのである。

P154

『死後を生きる』松村潔(アールズ出版)


>そもそもそういうものなのである。

いやいやいや。苦笑
そんなこと、本当に全くないですよ!
もしも前世記憶が肉体に近いエーテル体で記憶された「本物の記憶」なら、ですが。

おそらくヘミシンクや宗教儀式、ドラッグを用いた強制的な幻覚だと上のような「コード」的な誇大イメージが出て来るはずだろうと思います。
「コード」とは、つまりユングの言った集合意識のメタファーに近いものか。
多くの人がイメージするところの共通認識。ステレオタイプなキャラクター。それは寝ている時に夢に出てくる脳内映像と似て、集合意識からの贈り物です。

しかし実際にドラッグ等の力を借りずして前世の記憶を持つ人々は、99%が無名な人生を思い出しています。その多くは報われることなく死んだ悲惨な人生ばかりで、とても「誇大」とは言えません。
イアン・スティーブンソンの検証データしかり。
ワイス博士の患者しかり。
私自身が知っているケースしかり、です。
【追加】最近ではこんなケースもあります。これのどこが「誇大妄想」ですか?⇒映画エキストラだった前世を記憶している子供


1~2%が貴族だった頃の自分や、王様だった頃の自分を思い出していますが、これは現実に存在した貴族や王の人口比率と同じです。
貴族や王たちが現実に存在していた人々であった以上、「前世で貴族だった人など100%いるはずがない!」と主張するのは筋が通りません。同じことは有名人でも言えます。

そもそも、貴族だの庶民だの、有名人だの無名人だので同じ人間が差別されることが私には理解できません。
王様だろうが武将だろうが、たかが人間社会の一部で有名だったというだけの人が、ただそれだけで解脱して「偉大なコード」になることはあり得ないでしょう。
(キリストや釈迦など地上を卒業している人なら、もう個人としては戻って来ないと思うので「コード」扱いが妥当ですが)

たとえば豊臣秀吉や織田信長レベルの人は、いくらでも個人として生まれ変わっていると思います。
私が鑑定させていただいたなかでも、ホロスコープを開いて一見して「これは前世でかなりの有名人だった可能性があるな…」という方が何人かいましたが、皆さん過去に誰であったかの自覚はないし今は普通の生活をされています。

私も直前の前世ではどうやら記録に残る地位にあったらしいので、「バカ丸出しの誇大妄想家」と言われてしまうのですが、私自身のイメージに誇大なものはなく非常に地味です。
記憶の中で、ごくたまに一般の方々からワーワー騒がれた覚えはあるものの、それ以外に派手なイメージは一切なくほとんど室内の地味な光景が淡々と続きました……。哀しき事務方。

職場のイメージだけ切り取って思い出したら、私は自分の前世を「役所で事務処理をしていた雑用係のおじさん」と思ったでしょう。
今の私と同じ、いやもしかしたら今以上に地味で気弱な男のイメージです。
あんなものが誇大妄想と言われるのだとしたら、私のイメージ力はどれだけ貧しく慎ましいのか?

私の場合、他の「皇帝」や「王族」だった人生も小説で描いたため、「吉野さんの前世は派手な人生ばかり」と誤解されることもあります。
でもどうか冷静に数えてみてください。 そんな特殊な地位にあった人生は数多い転生記憶のなかで、たった2つだけ。しかも派手な生活を経験することもなく死んでいる。
直前の地味な人生も無理やり「派手」に分類するなら、合計3つ限りです。
あとは全て無名なまま、若くして死んだ人生ばかりです。
なかには親に名前をつけられることもなく砂漠に投げ棄てられて、赤ん坊のうちに死んだ人生もあります。正真正銘の「無名」です。今の私より遥か遥かに不幸。
言葉を話すこともできない幼い頃に、落石に押しつぶされて死んだこともありましたっけ。

小説『永遠の雨、雲間の光』に書いた前世記憶は全ての記憶ではなく、そのように何の経験もせず無名なまま死んだ記憶は省いています。
このパターンの記憶が最も多く膨大にあり、思い出しきれないものもあります。

したがって分母が不明なのですが、感覚としてはやはり「皇帝」だったり「有名」だったりした人生は1%程度だと思います。
繰り返しますが、これは人口比率に照らして妥当な比率です
自分自身のイメージの地味さも併せて「誇大」なものとはとうてい思えません。
(超古代設定はトンデモで、あり得ないと思いますが。そのトンデモ部分を削ぎ落とせば地味な人生ストーリーです)

基本的なことですが、前世の記憶を思い出す人には全て、思い出すことに理由があります。
前世で辛い経験をして、思い出さなければ先へ進むことができない人が思い出すのです。
つまり、思い出す記憶は確実にショッキングで嫌な記憶だけです。キラキラ派手な貴族生活で幸福なだけの恍惚記憶を思い出すことはありません。

と言うことは、結論としてこのように言えます。
「本物の前世記憶が誇大妄想であることは、絶対にあり得ない」。
故に、
「前世記憶が恍惚的な誇大妄想であるなら、それは幻覚である」。

【関連記事】 有名人の生まれ変わりが空想やコードである場合

魂魄や、魂の定義がぶれている


『死後を生きる』のアマゾンレビューに

私の理解力の無さなんだけど、私は初めと終わりの数十ページしか分からなかった。
今度は例え話も交えたりして、初心者にも分かりやすい表現にして頂けたら嬉しいです。

byぽい 2013/6/28

とあるのですが、何故に「分かりづらい」のかと言うと、書いたご本人もきっとよく分かってらっしゃらないからだと思います。

この本はヘミシンクの幻覚体験を自らの幅広い古典知識で解読しようとされているもので、私が思うに備忘録的な本に過ぎません。
このため、あっちへ行ったりこっちへ行ったり何がなにやら分からないのです。

前半と後半で「魂」の定義がぶれることも気になりました。個性を保ち記憶を持ち越すエーテル体のことを「魂」と定義しているのか、それとも高次元の集合意識を「魂」と定義しているのか?
定義がぶれるため、長年彼の本を読み続けてきた私でさえ理解が及びません。これを読んで分かった気になっている方は、おそらく何か勘違いされています(笑)。

ところで「魂魄」という言葉ですが、ここに書かれた魂魄の解釈は間違っているように私には感じられました。
中国における魂魄の「魄」は二つに割れた自己ではなく、単に「魂が乗る肉体(感覚器官)」というシンプルな解釈で良いのでは? キョンシーは魂を失って残るゾンビのようなものでしょう。
いっぽう、魂魄で言うところの「魂」は、エーテル体に近い個性をつかさどるものです。
ゲリー・ボーネルの考えも中華風の魂魄と同様に、「地上生物を魂がお借りして乗せてもらっている」というものだったように思うのですが。

だから松村先生の、
・魂 = 高次の魂
・魄 = 幽界に至る低次の魂
との解釈から、「魄のほうを修行させるために低次元な呪術などを訓練すべきだ」という主張はちょっと見当違いかな。

整理つけましょう。
魂はあくまでも魂、魄はあくまでも魄ではないでしょうか。
魄はお借りしているだけの生体なので、自分自身として修行をすることは出来ないと思います。魄には魄としての生物的進化があり、その進化に魂は積極的に手出し出来ない。

それと、低次元な呪術や幽界は、どちらも同じ魂の行き場所として存在するのです。
上下に階層的に連なる世界は、魂が経験する世界です。
だから低次元なものに関わっていると、死後に低次元な「幽界(地)」へ行きます。
高次元なものに関われば(ヘミシンクではない)、死後に高次元な「天界」へ行きます。
これが「三魂」というものです。

誰が行くのか。
魂です。
魂に上下の階層があるだけで、魂魄の魄は死んだらアリガトウ・サヨウナラ。
再び同じDNAを持つ家系に生まれて来ない限り、魄さんとは永久にお別れです。

アイデンティティはどちらにあるのか、はっきりとさせなければこの話はごちゃ混ぜになると思います。
「人のアイデンティティは魂にあり」、と見るべきです。
しかもそれは死ねばすぐに「類魂」や「コード」の根元に融けるものではなく、相当の長い期間、個性を保ったまま転生を繰り返します。

「魂とは集合体なのだ」
という状態に行けるまでは、そんなに甘い道のりではないんだよってことです。

やはり、松村先生も多くの人々と同じように「死と同時に孤独ではなくなる、コードを支える一部となる」と簡単に想像している気がします。
残念ながら魂の旅はそんなに簡単ではありません。
死後も個性の旅は当分終わらず、魂は孤独だということを自覚せねばなりません。
(切り離されているという意味で孤独なのであって、絶望的に見捨てられているわけではなく、先輩のアドバイザー霊たちに見守られています)

輪廻転生は、ギリシャ的に考えたほうが正解です


この本を読んでいると松村先生の考える「輪廻転生」はあくまでも象徴に過ぎず、現実現象とは考えていないように感じます。少なくとも彼にとって転生は個人が味わう現象ではないのです。

仏教の真髄で「輪廻転生」とは象徴的な思想に過ぎず、決して「個性を保つ魂が生まれ変わる」こととして考えられていません。

私たちがマンガなどで読みイメージするような「生まれ変わり」はギリシャ人が想像していたもので、東洋的とは言えないのです。

では現実はどうか?
体験による答え:ギリシャ側のシンプル思想が正解でしょう。
どうやら生まれ変わりは準肉体現象ですから、もっとシンプルに、マンガ的に考えたほうが正しいようです。

松村先生が想像するような「コード」や「類魂」となる過程も確かにありますが、それは死の直後には訪れない。後記事参照
もはや「無になる」、つまり今の次元からシフトチェンジしてステップアップした後の話です。

「魂は完全だから修行の必要もない」
と誰が言ったのか私には分かりませんが、確かに世の根元は完璧です。
しかし個人として切り取られて孤独となっている魂には、高次元に行けるだけの修行(生まれ変わりの体験)が必要です。


……私も何を書いているか分からなくなって参りました。笑
最後の話は、また整理して書きます。

それにしても良かったと思うのは、松村先生は今はヘミシンク・ジャンキーではないらしいということ。グループにも参加しなかったようで安心しました。

『死後』を読むと松村先生は一時期、相当ヘミシンクにはまっていたようで、「半年間はほぼ仕事が手につかなかった」ほどのジャンキー(依存症)となっていたらしい。涙。
しかし三年ほどでやめて、今度は自分なりの『水晶視』講座を始めたそうです。その後のことが『エーテル』に書かれたのか。

松村先生が魂魄の独特な解釈により、「低次元の幽界的な呪術で修行しなければならない」と勘違いしてしまわれたことはどうかと思うが、それでも私はまだヘミシンク販売に走るよりいいかなと思いました。
松村ファンの一人としては、何であってもオリジナルな松村ワールドを貫いて欲しいのです。

それに、中身のない幻覚を見るくらいなら、まだ幽霊などの低次元な体験のほうがマシだと私は思いますよ。
低次元だろうが何だろうが、本物であれば真実を教えてくれるからです。

(ヘミシンク愛好者は「本物かどうかなどどうでもいい。現実検証なんか必要ない」、と言うでしょう。私、彼等のそういうところが苦手なんですよ)

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