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何故、前世記憶では肉体に関する習慣はカットされるのか

ちょっと下品かもしれない話(生理現象に関する話)があるので、食事中に読まないようご注意ください。

ある前世記憶をお持ちな有名人のブログに、「前世のトイレはどんなだったか言ってみろよ、オラ! 記憶してないんだろ? だから前世なんてものは100%嘘ダー!」との幼稚なコメントが殺到していて失笑しました。

物質だけを信じる人たちはどうしていつも幼稚園児みたいな攻撃しかできないんだろうか? と不思議に思います。
(神秘に関することだけではなくて社会的な事件に関しても、自分が主張したい結論へ反論する相手に「デマデマ!」「バーカ!」「う〇こ」しか言えない唯物論者が多くて白けますね…。始めから否定する目的で相手を罵倒し、脅迫と実力行使の暴力で口封じしようとするだけ。目の前に置かれた材料のみで論理的な反論をする能力がないのは残念です)

でも考えてみれば本当に、前世記憶を持つ人の話には肉体習慣に関する記憶があまり無いのです。
私自身も肉体に関する記憶はほとんどありません。死んだときの死因などは覚えていますが。

この記事は、「なぜ肉体に関する記憶が持ち越されないのか?」と考えたときの呟きです。
“呟き”ということで常体で書いています。

〔2018年に書いた二つの記事をまとめて投稿しました。元記事https://ksnovel-labo.com/blog-entry-805.html、2つめhttps://ksnovel-labo.com/blog-entry-907.html


肉体の記憶はカットされる


前々記事を読んでいて気付いた。
そう言えば、私も記憶にないのだが他の方々からも、肉体習慣に関わる前世記憶を聞いたことがない。
(「肉体習慣に関わる」だから日常的なことを指している。死の時の記憶は持つ人が多い)

私の場合は食べ物に関する記憶すらない。今もそうだが、全転生を通して、肉体にあまり関心がないタイプだったせいか。小説内に書いている食べ物の話は全てフィクション。

前々記事より再引用

コメント欄にやはり「当時のトイレはどうだったんだ? 答えられないなら嘘だ!」と言っている人がいるけど、幼稚園生みたいだね。(この人は生まれてから今までの記憶を一分一秒単位まで僅かも忘れることなく持っているのか? もし忘れていることがあるなら自分の全存在を否定されてもいいと宣言するわけか)

とても幼稚な発想なのだけど、確かに毎日の習慣を覚えていないのは不思議だなと思う。

他の人はどうなのか?
私はそんな幼稚なことに関心がないから、尋ねたことがなかった。笑
そんなことに関心を持つのは、5歳~6歳までの子供くらいだろう。
と言うことは、幼児のうちに亡くなった方はトイレなどの記憶を持つ可能性もあるなと思った。
あるいは、トイレで倒れてそのまま亡くなった方など、前世の重要な出来事に関わるなら記憶している可能性もある。

何故、肉体に関する習慣はカットされるのか


「何故、前世の肉体に関する習慣はカットされるのか?」
この疑問を体感したいなら、誰もが可能な現世記憶へのアクセスで、「数年前の自分は何をしていたっけ?」と思い出してみるといい
もちろん、当記事を読んだ直後はトイレのことを意識しているのでまた別な時に。

ごく自然に数年前の自分を思い出そうとした場合、その当時あった主な出来事だけ抜粋で思い浮かべていて、24時間の全てを1秒も欠けることなく再生するわけではないだろう。全て再生するなら同じ分だけ時間がかかってしまうし。
その抜粋された思い出の場面に、トイレの記憶はあるか?
当時トイレで倒れて救急搬送でもされていない限り、トイレの場面は意識にも上って来ないはず。

これと完全に同じこと。
つまり単純に、人生というストーリーの流れにおいて重要ではない場面は、記憶として抜粋されない。

しかも前世記憶はこちらから自由にアクセスできない。
つまり、「思い出したい」と思ったときにすぐ記憶のクラウドへ行って記憶ファイルを引き出して来られない。
生きている間なら身近な脳という携帯の記憶媒体にストックされているので、「数年前に通っていたトイレ」というキーワードで引き出して来られるのだけど。

クラウドにアクセスできるのは限られた回数のみ。
上限は決まっていないはずだが、たぶん、指導霊か何かの許可が必要で滅多に許されない。
私の場合は他の人より遥かに前世記憶が多いほう。クラウドへアクセスする許可が出された回数も多いほうだろう。
それでも自分から記憶を取りに行くことができないので、「トイレについて思い出したい」などというくだらないリクエストでアクセス許可は降りないのではないかな。

もし自由自在にクラウドへアクセスできるなら、私はトイレなどよりもっと遥かに思い出したい記憶がある。当たり前だが。
親しかった人たちとの思い出をもっとたくさんダウンロードしたい。
でも、そんなことが可能だったら、私は永久に思い出の中に閉じ籠もって出て来られなくなってしまう。
それはそれで精神的に辛い。
(過去に関わるとおぼしきコンテンツが頻繁に襲って来る今の状況ですらかなり辛いのに)

何度も書くが、前世記憶への自由なアクセスが許されていないのはそれなりの理由があるのだと思う。

魂と肉体の記憶は別?

(続きとして書いた二つめの記事です)
上記の話を否定するかもしれない根本的な話。

私は最近
「もしかしたら魂の記憶と、肉体の記憶は別なのかも」
との考えを強めている。

何故そう思ったのか。第一の理由は、私自身の過去世記憶に肉体に関するものがないので。
“暴力をふるわれたときに痛かった”
“殺されたときに苦しかった”
ということは覚えているのだけど、痛みの感覚は思い出せない。
それとこれは肉体に関心が低い私だけなのかもしれないが、食事など生理的なことについても一切記憶がない。

第二の理由は、今生きていている間でも肉体の痛みの記憶は忘れてしまうので。
たとえばつい一か月前に死ぬ想いをしたのに、その苦しみの感覚をあまり思い出せない。
“死ぬかもしれないという絶望を感じた”
という心の感覚と恐怖は強く覚えているのに、痛みを再生できるわけではない。(再生できたら困る)
これが私だけに起きている現象ではない証拠に、「喉元過ぎれば熱さを忘れる」という有名な諺がある。事実、熱い物を飲んでも喉を過ぎれば感覚が思い出せなくなるな。
皆さんも死ぬ想いをしたときの苦しみについて、その感覚自体を再生できるわけではないのでは? 
ただ、また同じ苦しみが始まったときに「これはあの時と同じ苦しみだ」と思い出す。死ぬかもしれないという条件への恐怖は、心や頭が記憶を思い出す前に身体が反応する。まさに、「身体で覚えている」という感じ。
これはもしかしたら、ジャンボアメフラシへの実験通り「遺伝子に記憶されている」状態を表しているのではないか? と思った。

前回の『何故、前世記憶では肉体に関する習慣はカットされるのか』では、重要な記憶だけ抜粋して思い出したいから肉体に関する記憶はカットされるのだ、と書いた。
確かにそういうことはあるのだけど、もっと根本的な理由のせいかもしれない。

魂に刻まれる記憶と、肉体記憶は別 という根本理由。

実はこの推測を前回も書きたかったのだけど、「魂と肉体は別々」と書くのは語弊があるかなと思って控えた。
生きている間は、心と身体を一体と考えなければ健康に支障が出る。それに事実でもないと思う。
少なくとも生きている間は魂は肉体と完全に融合し、切り離すことができない。
魂だけが優位となり身体をないがしろにしていると、身体が壊れてしまう。せっかくお借りしている肉体に申し訳ない。
(私は今まで身体をないがしろにしがちな人間だったので、反省してこう書いている)

でもジャンボアメフラシへの実験で、改めて確信を強めた。
やはり、魂と肉体はいずれ別々になってしまうのだろう。
だから肉体が滅んだとき、その肉体での記憶は魂に受け継がれないのだと考えられる。
昔の人が「魂魄」と呼んだり、哲学者が「心身は別だ」という説を唱えたのは真実だったのか。

――これはなんとなく、馬と人間の関係に似ているか?
現代で言えば、車と運転手。
アニメ的に言うなら、ガンダムとアムロ。いや、乗っている間は感覚も一体化するという点、エヴァンゲリオンとシンジが最も正確に表している? 

私の場合、魂と肉体は別だと思うと、かえって肉体を大事にせねばと思える。
「自分のもの」
だと思うから肉体をぞんざいに扱いがちなのであって、お借りした別の生命体だと考えれば粗末にはできない。
まして、自殺など決してやってはいけない。それは他者に対する殺人と同じこと。
「自分の命なんだから、死ぬのも自分の勝手。どう扱ってもいいでしょ」
と言うのはやはり間違っている。
始めからの人生計画で、どうしてもやらなければならない仕事があるなら、肉体へ無理をさせるのも承知で遂行しなければならないと思う(かつての私がそうだったように)。でもその時は肉体へ詫びて、感謝しなければな。

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