羽音

「わたしが死んだ時、蠅の羽音がした」
──エミリー・ディキンスン、465番の詩

 乾いた風が吹くと、まず崩れるのは眼球だという。

 私は目を細める。茫漠とした砂塵の彼方では、天衝く排気塔から煤煙が吐き出されている。
 昼夜を問わず稼働し続ける火葬場。熱と灰が無尽蔵に供給され、大気をさらに脱水していく。

 視線を移す。老人が死んだ幼子を抱いている。子の盲いた眼窩には黒いうろがあるだけだ。

 もう、死がなにかに還元されることはない。乾いた肉体はただこぼたれ、塵に砕けるだけ。老人の指が遺体に喰い込み、皮膚が落屑する。地面に落ちてしまえば砂と見分けはつかなかった。

 いや、そもそも。老人は死んだ子の祖父なのか、父なのかもわからない。肌はしわがれ、正確な年齢は推測できなかった。

 容赦ない浄化エピュラシオン・ソヴァージュにより世界は清潔化された。行き過ぎた不潔恐怖症マイソフォビアにより人類史は一変することになったのだ。

 以来、生と死の循環サイクルは失せた。数多の細菌が消滅したから。死体は腐らない。ただうず高く積み上げられ、順番が巡れば火葬場で焼かれるだけだ。
 誰しも焼却の周期サイクルを疑わない。

 老人が顔を上げる。私を見る。彼の目にはまだ湿り気があった。

「お嬢さん。どこから来たんだい?」

 私は指を伸ばす。頭上へと。
 潤んだ右腕の肉から、蛆たちが零れ落ちる。腐汁とともに。

 老人が呆と見る。

「空から?」

 かぶりを振る。
 もっと遠くから。

 いにしえの冷戦時代。ソヴェト。宇宙ステーション、ミール。資源が限られた限定空間での廃物処理研究。
 ガラス容器で累代される生命。過密飼育されるなかで、擦れ合う姉妹たちの羽音。幾千万何億を超える無限の響き。

 懐かしい饗宴。
 私は、私の産声を聞いた。

 老人が困惑する。

「あんた、なにをしに来た?」

 私は溶けた微笑みをする。

「世界を、腐敗させに」
【続く】

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