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「ひやっしー」の台頭には科学界の責任も大きいのではという話

ひやっしー批判が再燃している。

『ひやっしー』とは村木風海率いる炭素回収技術研究機構によって開発されている「世界最小のCO2回収装置」を自称する装置だ。装置の動作原理は水酸化ナトリウムを含む液体によって、空気中のCO2を吸収するという単純な仕組みである。同機構はこれによって回収したCO2を石油代替燃料「そらりん」や化粧品に変換し、地球温暖化問題解決への貢献をすると標榜している。

「ひやっしー」には当初から効率・原理における新規性に疑義が挟まれていたが、村木のプレゼンスは年々増しており、彼は内閣府ムーンショットアンバサダーに任命されている。最近では、開発者の村木風海による著書「ぼくは地球を守りたい」が小学生向けの推薦図書になったり、村木が科学番組のMCになったことを皮切りに批判が再燃し始めた。

ひやっしー批判の難しさ

ひやっしーを冷静なトーンで批判をしようとすると存外難しいことに気づく。というのもひやっしーのメインコンセプトである「二酸化炭素を空気中から回収することで地球温暖化を抑制する」というコンセプトは、DAC(Direct Air Capture)やCCS(二酸化炭素回収貯留)という技術として普通に研究されているものであるからだ。

ひやっしーを正当に批判するためには、二酸化炭素収支や将来的な改善可能性を議論する必要がある。この点について議論するのにはそれなりに専門的な知識を要する。

どちらかというとひやっしーが強く批判されている理由は、村木のアカデミアとそこで培われた知見を軽視する態度に思える。彼は自身の研究を進めるにあたって、アカデミアは重要でなく、障害ですらあるという態度を一貫して取っている。

まず彼がメディアで注目を集め始めた一つのきっかけに「研究に専念するため」東大を4年で中退したことであろう。彼はこの出来事をきっかけに「差し迫る温暖化の脅威に迅速に対応するために東大を中退した規格外の天才」として自身をマーケティングしているようだ。

また彼の作る装置に対してのアカデミアから投げかけられた科学的な疑義に対して「科学の尺度だけで計れないビジネスの話をやっているので、科学界からの批判はあるかもしれないが、そうやって研究停滞させてたらいつまでも何も解決しない」といった応答を行ったことも大きく批判された。

他にも彼が大学教授に「研究成果をもっていかれそうになった」などといった彼の研究機構がアピールする研究成果と比較した場合俄には信じがたい、真偽不明の発言を行ったことも話題を呼んだ。

いずれにしろ彼はひやっしーを「アカデミアでは実現不能な天才のつくるプロダクト」であるかのように謳って、装置の原理を良く理解していないであろう意思決定者に対し売り込みをかけているようだ。

私も村木およびひやっしーへの批判はおおむね正当だと思うのだが、一方でひやっしーを批判する理系の人間にそもそも彼を批判する資格があるのか疑問を持つことが多い。「実用化には課題が大きすぎ、手軽な既存手法と比べた際に大きなメリットがあるともいえない」レベルの研究をあたかも「明日からでも利用可能な革新的技術」として売り込む手法は理系研究には遍在していると言えないだろうか?

そのような状況の中で彼を批判するのは、やや権威主義的な風潮を感じもする。以下ではアカデミアを中心としてハイプが起こされている現状、応用研究の難しさがときに意図的に忘れられている現状を振り返ることでひやっしー問題について考えていきたい。

日本だけの問題ではない「ハイプ」サイエンス

本件に伴って、最近邦訳された『Science Fictions あなたが知らない科学の真実』で、科学研究における「ハイプ」が強く批判されていたのを思い出した。

本書は「再現性の危機」問題を中心に、アカデミアに蔓延る不公正な研究慣習をする批判する本だ。本書の6章においては「Hype」という章があり、科学研究が専門家自身の手によって誇大広告気味に宣伝されている現状が論じられている。

この章ではHypeの具体的な事例としてまず「GFAJ-1」というバクテリアの発見を紹介している。

2010年NASAは「地球外生命の証拠の探索に影響を与えるとされる、宇宙生物学の発見」を行うとした会見の予告を行った。この発表は「地球外生命体の発見」を明らかに暗示しており、ネット上で反響を呼んだ

発表自体は、リンの不足した環境でヒ素を用いて増殖できるバクテリアを発見したとする研究で、重要な研究ではあるものの、ネットの聴衆達の期待に応えるようなものではなかった。発表後もNASAの関係者は「生命の定義を拡張した」などの強い言葉を使って研究の重要性を強調した。無論事この発見が事実であれば、研究としては重要なものであり、論文は「Science」誌にも採択された

しかし発表当初から実験のプロトコルに対する疑問が呈され、すぐに様々な追試が行われた。現在では単なるコンタミネーションによる報告であると受け止められているようだ。

この例のように、近年の科学界では発見の重要性を研究者や研究機関が過度に誇張する「Hype」が横行している。

とくにわかりやすく「Hype」を行うのは医療にかかわる領域である。本章で紹介されている論文 (Sumner+, 2014)では健康に関連した論文における誇張を3つの類型に分類している。「unwarranted advice」(保証されていないアドバイス)「cross-species leap」(種を超えた飛躍)「correlation is not causation」(相関は因果ではない)だ。まず「unwarranted advice」は論文の結果からは必ずしも保証されないアドバイスを行うということだ。たとえば健康関係の研究において、研究の結果からはそれは直接指示される何らかのエクササイズをすることを推奨したりする事例である。研究によれば40%のプレスリリースがこの種の誇張を行っていたそうだ。「cross-species leap」はマウスなどの実験動物で観察した結果を人に当てはめようとするタイプの誇張だ。あたりまえだがマウスでの実験結果の90%以上は人に当てはまることはない。この種のハイプを批判するためのTwittterアカウントも紹介されている。「correlation is not causation」も科学者であればだれでも知っていることだ。2つの要素が相関しているからといって必ずしもその2要素に因果関係があるわけではない。カップ麺を食べた人間はいずれ寿命で死ぬが、カップ麺とその人間の死亡に因果関係がある可能性は極めて低いだろう。33%のプレスリリースにおいてこの種の誤った推論が用いられていたそうだ。どれも派手なプレスリリースを呼んで内容を精査したことのある人間にとっては覚えがある手口ではないだろうか。

筆者は、研究者によるTED talk や大衆向けの解説書の問題点も指摘している。例えば事例として挙げられているのはStanford大学の Carol Dweck による"Growth Mindset" の研究である。日本では『マインドセット:「やればできる!」の研究』としてベストセラーになっている。内容としては"growth mindset" という心持を持てば、成功するという例を自身の研究を引き合いに、主張する本のようだ。しかし2018年のメタアナリシスによれば、"Growth mindset"は、成績の向上に関して1%程度の相関しか説明できないそうだ。この手の本を読んだことがあるとわかると思うが、本を読んでいる最中に、"growth mindset" がここまで弱い影響しか持たないとは思わないはずだ。

The risk of such overhyping is that teachers and politicians begin to view ideas like mindset as a kind of panacea for education, focusing time and resources on them that might be better spent on dealing with the complex web of social, economic and other reasons that some children fail at school.
(訳:このような過剰な誇張によるリスクは、教師や政治家が「マインドセット」のような考え方を教育の万能薬のように見なし、時間やリソースをそのような考え方に集中させてしまうことだ。結果として、子どもたちが学校で失敗する社会的、経済的、その他の複雑に絡み合った理由に対処するために、使われるべきであった時間やリソースを浪費してしまう可能性がある。)

Stuart Ritchie(2021), "Science Fictions" , 翻訳部分は筆者

ハイプそれ自体は単なる誇張であり、嘘とまでは言い切れないかもしれないが、新しく提案された手法を何らかの万能薬と思わせることは、地道な努力や改善を軽視する投資判断を助長してしまうかもしれない。

本書では、priming 効果のように疑義が呈された研究を引き合いに出し続けているJohn Barghや、誤った研究の解釈に基づいて大衆向けの解説書を書くMatthew Walkerのことも批判している。これらの研究者は世界トップクラスの大学の研究者であり、彼らのような人間の言葉は政府関係者を始め、多くの人に信頼されている。このような立場にある人たちが、"Hype”を助長しており、またそれに対する批判も十分に立ち上がっていないとしたら、科学界にも責任の一端があると言わざるを得ないだろう。

また研究内容に問題がなくとも、それを彩る言葉にインフレの傾向があることは否めない様だ。2014年のVinkersらによる研究は"innovative", "promising"のような客観的とは言い難いポジティブな言葉が研究のアブストラクトにおいて近年かなり増えていると報告している。特に1999年までにはほとんど使われていなかった"Ground-breaking"という言葉も近年急に使われるようになってきているようだ。全体的には40年間で9倍ほどこのような自画自賛的なポジティブな言葉がアブストラクトに出現するようになっているらしい。実際本当にinnovativeな研究が増えているわけではないはずで、科学が全体として自身の研究に言及する際に抑制を失いつつあることの兆候と捉えることもできるだろう。

さらに悪いことに、研究者自身が過度に成果を強調すると、マスメディアもそれにつられた報道をし、さらにハイプが加速していくらしい。紹介されている研究によれば、もし大学のうったプレスリリースに上述した3種の誇張が含まれている場合、メディアによる報道には6.5倍の"unwarranted advice"、20倍の"correlation is not causation"、56倍の"cross-species leap"が含まれるようになるそうだ。このことは同グループによる大学のプレスと協力したランダム化介入試験に基づく研究によっても検証されている。

本書では物理学における「光速を超えるニュートリノ」の報告を好例として、物理学などでの決定的な発見に対してはある程度追試や批判の文化があり、抑制的な発表の文化があることを評価してもいる。昨年常温超電導を達成したのではないかと噂されたLK-99も素早く追試が行われ、現在では否定されている。誤った報告は少ない方が良いが、正しく撤回や検証が行われている科学分野をきちんと評価することも重要であろう。残念ながら「光速を超えるニュートリノ」の間違いを報告したOPERAの代表は辞任に至っているが、誤報告に適切に対処した科学者は肯定的な評価を受けるべきであっただろう。

本書で批判されている事例は心理学・社会科学・医療や生物の領域にとどまっているものの、筆者の知る限り、科学研究は多かれ少なかれこの種の誇張を対外的には行っているように思える。

また、インプレッションが金銭やインプレッションを目的に研究内容をロクに精査せずに発表やデモを鵜呑みにして研究に対して「驚いて」みせる人たちもAI分野を中心に増加している。彼らを揶揄する「プロ驚き屋」という言葉も生まれた。彼らのような人間が運営する、素人科学メディアは、ますます「Hype」を助長している現状があるだろう。そしてそのような「Hype」に対して業界人が適切に対応しているのかというと微妙だ。

以上のように、科学自体も「Hype」に汚染されている状況がある以上、経済的なインセンティブにけん引される企業がより大きな「Hype」をねらった発表をするのは当然の帰結にも思えてしまう。

あまり理解されていない実用化の壁

自分も大学や企業で研究するまではあまり自覚していなかったのだが、「ラボで反応が起こった」というレベルから「現場で高い信頼性を持ち、普及可能なコストで実現できる」というレベルに至るまでには千里の隔たりがある。

技術が実用化するためには、技術がビジネス上のニーズを満たす必要がある。大体の場合技術を展開できる場所が増えれば増えるほどニーズは高まるわけだから、コストは低く、信頼性は高い必要がある。一方でコスト削減や信頼性の重要性は、理系大学生にすらその重要性を理解されていないことがあるのではと思う。

数万単位で製品を生産する際にはラボで一個作るレベルとは別次元の再現性を求められる。大規模化に伴っては技術的な難しさだけでなく、法規制・環境への影響への配慮・資材の安定供給などラボではほとんど気にしなくてよかったような制約にも対応する必要がある。極めつけには加えてコストの問題も出てくる。先行する手法に対してコスト的なメリットがなければ新しい技術は採用されることがない。

経営的な視点では技術開発が利益に結びついていくまでの道のりの厳しさを称して「魔の川・死の谷・ダーウィンの海」などの言葉が使われることもある。理系大学生の研究には新規性が求められるため、コストや信頼性の観点は実用上の技術と比べた際あまり重視されない傾向がある。

「ひやっしー」も原理上は空気中の二酸化炭素を減らせるわけなのだが、村木の説明ではこれら「魔の川・死の谷・ダーウィンの海」のような過酷な市場環境のテストをパスできる理由が全く説明されていない。強いて言うなら彼のカリスマ性で莫大な資金を集めれば、もしかして技術を開発することができるかもしれないといったレベルの話だ。

この件で思い出すのは東大発のバイオベンチャー、ユーグレナである。ユーグレナはミドリムシの培養技術をコア技術とするベンチャー企業だ。ユーグレナによれば、ミドリムシは健康食品としての有用性に加え、バイオ燃料の材料としても使えるため、培養の大規模化ができれば大きな市場価値を生み出すとされている。

特に市場で評価されていたのは「ミドリムシを使いバイオ燃料をつくる」プロジェクトだろう。カーボンニュートラルな燃料に対する需要は世界中で高まっており、もしコスト的に十分なバイオ燃料を供給できれば、大きな企業価値を産むことになる。

しかし、このミドリムシを使ったバイオ燃料プロジェクトに関しては実現性が疑問視されつつある。度重なるプロジェクトの実現時期の延期に加え、原理レベルで実用化済みのバイオ燃料との優位性を疑問視する声もある。

2024年における社長の出雲のインタビューをみると量産に至るまでの道筋について、かなり不誠実な受け答えをしており、要するに量産への道筋はいまだに立っていないように見える。

ミドリムシから燃料を作ることには初期の段階で成功しており、その結果として東証プライム市場に上場するまでに至っているわけだが、量産化の困難さに焦点を当てた批判的報道をほとんど見ることはなかった。とくに燃料のような市場においては、競合と比べた際のコストは極めてクリティカルなはずだ。

このように素人目には「科学的」で十分な実績を積んでいるように見える技術も内実はボロボロで、実用化には至ることは極めて困難という事例は少なくないのではないだろうか?

最近だとSNS上で「アンモニアの常温常圧合成」が話題になっていた。筆者はこの分野に詳しいわけではないが、過去に何回か似たようなニュースを聞いたが実用化に至ったという例は聞いたことがないので、実用化には種々の壁があるのではないかと推察される。プレスリリースには「100年以上の歴史を持つ現在の製造方法(ハーバー・ボッシュ法※3)に替わり、アンモニア製造工程におけるカーボンフリーの実現にはずみをつける」などと書いてあるが、まだ製造方法を完全に置換できるレベルには至っていない段階においての表現としては、誇張の感は否めない。雑にX上での意見を読んだだけでも、投入されるエネルギーが不透明なところ、ハーバーボッシュ法と比べた際の効率に対する疑義、コスト・廃棄物の問題、反応速度などの懸念点が上がっている。これらの論点を冷静に議論しているメディアは少ない。

AIブームが来るまでは、ブロックチェーンについては謎の万能論が闊歩しており国政政党の代表なども意味不明なことを言いだしたことは記憶に新しい。科学技術にまつわる過度なハイプは実際に意思決定者の判断を誤らせている可能性は高い。村木に関しても、このような「夢の技術」を過度に持ち上げる風潮に感化されている可能性はあるのではないだろうか?

世界を変える技術が様々な媒体で宣伝されている。しかし実際に研究としては課題が大きく、地味な改善を積み上げていくしかない。そしてそれは実るかもわからない――、それなりの社会経験を積んだ政治家が転がされてしまっている現状がある中で、現実に直面した未熟な若者が認知不協和を起こして奇矯な行動に走ってしまったとしてもあまり責められる状況にはないように思える。

流石に同列に語るべき問題ではないようにも思えるが、iPS細胞による再生医療なども実用化の壁にぶち当たっており、同様の批判を受けている。先端研究の可能性を素人が過大評価することのリスク、そしてその過大評価を予算確保のために利用してしまう(利用せざるを得ない)アカデミアの危うさを象徴する出来事だ。

”Fake it until make it”という格言がある。成功するまで成功するふりをすることによって、実際に成功できるといった意味の格言だ。実用化が難しい技術に対して、分かりやすいデモを見せ、資金やリソースを確保するというのはプロダクト開発における重要なステップであり、スタートアップ界隈ではこの言葉はよく使われている。しかしFakeも度が過ぎれば、詐欺となる。セラノス社をめぐる一連の騒動を教訓とし、革新的な技術に対しては常に懐疑的な態度をとっていくことも必要であろう。

技術開発は困難であり救世主はいない

ひやっしーのようなものがもてはやされる背景には、日本社会における一発逆転願望・救世主願望も関連しているかもしれない。

批評家の東浩紀は著書『訂正する力』において、日本社会は明治維新、第二次世界大戦の敗戦とGHQの介入に伴う急速な社会改革を経て大きく成長した成功体験に囚われており、「社会のリセット願望」のようなものを持っているのではと指摘している。異端の天才が現れ、日本社会の停滞をひっくり返してくれるかもしれない――社会に流れるそのような淡い期待も「ひやっしー」がここまで持ち上げられている一つの原因かもしれない。

「異端の天才が一人でパラダイムシフトを起こし、既存の技術的蓄積を無にする」といった技術観はフィクションなどで良く見られるが、実際のところほとんどの技術革新というのは既存の研究の延長線上にあることがほとんどであろう。最後の一押しに「型破りな天才」的なものが役に立つことがあるかもしれないが、結局のところ無数の「優秀な」専門家の地道な技術的蓄積なしにブレイクスルーが実現することなど現実にはないと言ってよい。スティーブジョブズが一人で無からiPhoneを作れるわけではない。

若者が減少している現在、大人顔負けの知識や能力を持った子供が「日本を救う天才」としてもてはやされることも多い。そのような若者の存在は確かに貴重だが、分野のトップランナーが必ずしも神童エピソードを持っているとは限らないことから見て取れるように、単に早熟なだけというケースも多いのではないだろうか。若者の大抜擢には、若者が「コントロールしやすく・切り捨てやすい」特性を持っていることを踏まえた政治的思惑も絡む。ひやっしーに限らず、優秀な若者にその年齢を理由に実力以上の待遇を与えることには懐疑的になる必要があるだろう。

さらに心情的な側面を考えると、良くも悪くも政策を作っている官僚というのは毛並みの揃ったエリートであるため、ある種の自罰的な感情から自分の積んできた訓練を軽んじ「正当な訓練を積んだ専門家」を過小評価する一方で、「在野の天才」を過大評価する傾向というのもあるのかもしれない。今のアカデミアに問題がないわけではないが、実際アカデミアはそれなりに役に立つ知見を出しているので、正当な訓練を積んだ専門家の知見を活かし、巨人の肩の上に乗ることは大切なことだろう。

ダイエットするには消費カロリーを増やして摂取カロリーを減らすしかなく、大学受験に受かるには長時間勉強するしかない。技術的なブレークスルーをもたらすためには、地道で堅実な技術蓄積が結局のところ基本であり、一発逆転をもたらす救世主的な技術や人物に過度な期待を寄せるのは辞めたほうが良いだろう。

救世主は1人。 何人もいたら意味がない

凛堂禊『ギャングスタ・リパブリカ』より



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