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俺たちはいい加減に麻枝准から卒業すべきなのかもしれない~『神様になった日』感想

※Key作品全般に関する重大なネタバレが含まれています

困惑。神様になった日の感想を一言で言ってしまえばこうだ。

麻枝准が再びアニメを作ると聞いたとき、初めに頭をよぎったのは不安であった。前作『Charlotte』は構成に難があり、麻枝作品の中では厳しい出来だったし、キービジュアルや「神様」「原点回帰」などのキーワードを見るにセカイ系っぽいものをやるのであろうと想像された。しかしセカイ系というこの手垢に塗れたテーマで新規性のある作品をいかに作れるのか、「麻枝准」という青春の思い出がさらにいっそう破壊されるのではないか、また「尺がたりない」残念な結果になるのでは、などと懸念ばかりが浮かんだ。

しかし蓋を開けてみて感じたものは、予定調和的失敗というよりも、期待した方向でもなければ懸念した方向でもなく明後日の方向に進行していく困惑感だけであった。

まずはこの困惑感について考えてみると、大きく分けて主人公像の変化、「セカイ系」的主題からの離脱が原因に思える。

かつてないほどに等身大な主人公

本作の不満点として良く挙がるのは、主人公成神陽太の幼さである。彼は序盤ではひたすら「全知の神」たるヒロイン佐藤ひなの指示の元行動し、終盤では稚拙な介護でひなに恐怖を与えてしまっている。

これは主人公がかつての麻枝作品より「等身大」なものになっていることが原因に思える。

本作の主人公は過去にトラウマを持っていない。

過去の麻枝作品ではトラウマを持った主人公がほぼ一貫して題材になっていた。父親のせいで部活の引退を余儀なくされた朋也、母親の教えた漠然としたおとぎ話に囚われる国崎、記憶の欠落を抱えた音無などが挙げられるだろう。

それは「トラウマをどう克服するか」という主題にのみ焦点が当たる結果となっていたともいえる。トラウマを持っているということは逆説的に言えば、トラウマを軸にアイデンティティが確立している、あるいはアイデンティティの萌芽があるということでもある。

一方で成神陽太はトラウマというものをほぼ持らず、(エロゲー的お約束で)父親や母親が不在である家庭とは対照的に、家庭環境も極めて健全であり、息子を理解し、信頼し、必要な協力も惜しまない父親と母親像が明確に描かれる。

この主人公像は退屈な構成の原因ともいえるが、むしろアイデンティティの欠落に苦しむ現代の若者という時代感を捉えたものともいえなくもない。

スマートフォン、SNSにおける相互監視社会は常に社会的なペルソナを纏うことを若者に強要する。キャラクターを使い分ける必要に駆られた現代の若者は必然的に自分の軸を見失いがちだ。

また終身雇用制の崩壊とともにキャリアデザインの必要性が叫ばれている。そのために「夢」を持つことが若者にともすれば強要されており「ドリーム・ハラスメント」とも呼ばれる現状が生まれている。

つまるところ確たるアイデンティティ・あるいはトラウマを持っている主人公というのはある種「等身大」ではない節があるのだ。本作の主人公はその点でいえば、確たる夢もなければトラウマもなく、恵まれた家庭で、なんとなく大学進学を試みようとする進学校の生徒という「等身大」なキャラクターである。

そして本作では主人公が「等身大」であるがゆえに、最初はひたすらに「全知」の神に振り回されてしまう。そしてひなに対する恋心もあってひなの為に行動しようと動くも、空回り気味で終わってしまう。さらにひなが量子コンピュータを取り除かれた後は、現実を受け入れられずに、稚拙な行動を繰り返してしまう。

このことは恋愛ゲームでプレイヤーの分身として「主人公」としてそれなりに主体的に動く主人公を見ていた麻枝読者が困惑する原因になっていたように思える。

奇跡なき世界で生きていく覚悟

「幻想世界」に対する向き合い方も過去の麻枝作品から大きく変化した。

麻枝の作品には「もう一つの世界」のようなものが現れがちだ。例えば『CLANNAD』の幻想世界、『AIR』の翼人伝説にまつわるくだり、『ONE』での永遠の世界などがこれに当たる。これらの異世界は作品に独特の幻想的な空気をはらませていた。そしてこの「永遠の世界」への憧憬が断ち切られることが作品の終着点となる。

一方で『リトルバスターズ!』からは一貫してこのようなモチーフは徐々に後退している。『Charlotte』においては特に「能力」は思春期の病であり、そして主人公は「タイムリープしない」ことを選んだ。

そして『神様になった日』において、奇跡の力は社会を破壊するものとみなされ、選択の余地すら与えられずに容赦なく奪われる。

「神を殺して世界を守るか、世界を狂わせてまで神を生かすか」といった問いかけに「奇跡」の作家である麻枝准が、明確に「秩序は保たれなければならない」というアンサーを出すのは、大きな変化であろう。

また、最終話において、映画撮影の一幕には、陽太の元へひなが拙い足取りで歩いていくというシーンがある。これは『AIR』において観鈴が「ゴール」するシーンにそっくりだ。『AIR』においては、観鈴はこの後消えてしまう。一方で、『神様になった日』においてはひなは消えることなくそのまま生きていく。これはある意味「都合よく」消えてしまった観鈴とは対照的だ。「障害があろうが、それを受け入れ生きていこう」そんな麻枝准の宣言にも思える。

「セカイ系」はもはや作中映画『Karma』のようなフィクションでしかなく、淡々と運命を受け入れ成長していくことが必要である――というのは極めて現代的な着地点にも思え、麻枝作品の成熟とも思えなくもない。

ラストのモノローグはそのような世界観を改めて視聴者に提示する。

これから待つ未来は 想像もつかない
どんな救いもない 奇跡も起こらない 残酷な世界かもしれない
それでも 僕は 精一杯 ひなと 生きていく

ひなの病気は進行性で悪くなるようなものであり、主人公たちの生活はより過酷なものになっていくことが想像される。成功率は低いものの手術があった『智代アフター』、ある意味「都合よく」観鈴が消滅してしまった『AIR』とは違って、さらに悪くなっていくかもしれない過酷な現実の中で、掴んだ夢を求めて生きていくことが主人公には求められている。

この地に足の着いた人生観が麻枝准の新境地といえるのかもしれない。

新境地が受け入れられなかった理由

以上の要素によって、『神様になった日』は、既存の麻枝ファンにとっては良くも悪くも新鮮な作品になっていたように思える。ネット上での酷評を見ると、既存の麻枝ファンにはこの新境地は受け入れられなかったようにも見えなくもない。

一方でTwitterでの感想を拾ってみると最終話について良かったとのコメントを残している人も少なくないし、例えばMyAnimeListを見るとスコアは7.04であり6.70の『Rewrite』、6.77の『天体のメソッド』よりは幾分か良く、この作品を評価する人も少なくはないことが伺える。

とはいえ過去作に及ばぬ評価であることは間違いなく、以下ではその理由について考えたい。

ストーリーラインの曖昧さ

後から振り返ってみると、ひなと陽太の恋愛、あるいはそれを通した陽太の成長こそが物語の骨子にあったことが分かるのだが、序盤からそれを察知することはかなり難しい。特に恋愛のテーマが明らかになるのは、第5話で「伊座波ルート」のフラグがおれ、ひなが陽太を意識し始める第6話からである。

むしろ宣伝などの影響、あるいはしつこく描かれる「世界の終わり」の語に惑わされてなにかセカイ系的テーマであったり、あるいはハッカーと近未来的描写、サイバースペース的なモチーフからSF的な要素が前景に出てきたりといった展開を想定した視聴者は少なくはないのではないだろうか。

加えて主人公の無目的さも作品全体をぼやけさせている。序盤では主人公はひなの手足と命じられるまま他人の願いをかなえるだけで、積極的にイニシアティブを握るようになったのは終盤からである。

以上のことから、各週で見ていくことにあるテレビアニメとしては連続性に乏しく、単にエンタメとしての強度が不足していたように思える。

リアリティラインの混乱

本作では麻枝作品としては珍しく「コーパス解析」「量子コンピュータ」「神経原性筋萎縮」などの学術用語がふんだんに盛り込まれている。このような用語を使った場合、視聴者はそれなりの取材に基づいた、一定のリアリティのある疾患や技術の描写がなされると想定するであろう。

しかし本作の技術的リアリティはかなり謎だ。例えば、鈴木少年のハッキング描写も高度なウェアラブルデバイスを使用して行われているかのように描写されるが、作中においてこの技術水準が他の部分に適応されることもない。ドローン広告などの近未来描写もあるが、こちらも作中他の部分に適用されることはなかった。

ひなの病気描写もロゴス症候群は「脳萎縮と神経原性筋萎縮が同時に起こる病」で「成長するにつれ筋力が低下しやがて死に至る」病らしい。そしてかつては「意思疎通もままならない」状態であった。(8話)

このような設定を基に、10話以降のひなの病状を見て見ると、歩行・食事・言語などに障害がある一方で、クッションの上で坐位を保てているし、起き上がりも可能、バスケットボール(500gぐらいある)を立った状態で何回も投げられる状態であり、病状にいまいちリアリティを感じられない。(これは単に私が知識不足なだけかもしれない)

好意的に解釈すれば、量子コンピュータによって病気が一時的に治癒された状態になったので、いったん身体機能に関しては健常者に近いものに戻ったが、これから筋肉や脳の萎縮が進行していくということなのかもしれない。しかし、そうであればその過酷な未来はより具体的に示唆されるべきであろう。

6話で行われたバイクでトラックに飛び移るジャンプもかなりリアリティが欠落しているようにみえる。陽太はバスケプレイヤーであり、阿修羅もかなり身体能力の高い人間であるという物語的説明は可能だが、それを裏付けるようなアニメとしての描写がないので、急にバイクからトラックに飛び移るという離れ業に成功するのは極めて唐突に思える。

最もこの点について言えば、そもそも麻枝作品鑑賞の作法として「リアリティを気にしてはいけない。」というのがあるのかもしれない。AIRやCLANNADのことを冷静に考えてみると、人気のない旅芸人で飯を食っていけるはずもなく、さびれたパン屋で居候を養える余裕は普通ない―といったリアリティの欠落は無数に指摘できるであろう。

一方で本作のアニメとしてのクオリティの高さはかなり現実感を強化しており、ファンタジックないたる絵・そもそも描写に乏しいノベルゲームという水準では許されたレベルの描写も大きな違和感を孕むものになってしまっていたという点は否めないだろう。

倫理的な無神経さ

もう一つ障害・介護といったセンシティブなテーマに対する取り扱いがあまりにも無神経に思えた点だ。

障害をもった人間の介護の大変さは、医師であるひなの父親から示唆されている。ひなの意思があったとはいえ、ほぼ迷うことなく、経済的に大きな負担を負うことになるであろう両親にもろくな相談をせず「施設から連れて帰る」ことをゴールに設定するのは余りに安易に思える。

設備の整った病院での他人による介護というのは、本人の意思に反するものであっても、実際のところ家族による自宅看護よりも良いものになるケースがある。陽太の行動からも、思い入れがあるがゆえに感情的になってしまう家族介護の難しさを見て取れるであろう。

またひなの意思についても疑念が残らないこともない。ひなは知能的にはかなり退行した状態にあり、その責任能力や合意形成能力にどこまで信頼がおけるのかというのは中々難しい問題に思える。

むろんそれまでの介護でほぼ意思を示さなかったひなが、雪原を歩み陽太を求めたことが、ひなが陽太たちによる介護を望む確証と作品的にはなっているのだろう。また9話では

貴様と過ごしたこの夏は消えてなくなるが
今感じているこの気持ち、せめて、それだけは残っていてほしい
そう願うわしがおる

そして

実を言うとな、わしも貴様が好きじゃ

と発言しており、このことは最終話で、「陽太が好き」という気持ちだけは残ったという傍証になっている。(また夏の記憶ついても映画という形で残っているというのもこの物語の美点のひとつかもしれない)

そして彼らが信頼しあっている関係にあることは手を取り合う描写、病院では見せなかった穏やかな笑顔などの形で示唆されている。

しかし、言葉がろくに喋れない状態で「恋人」として通じ合っているとなぜ確信しているのかという点に疑念はかなり残った。また数字が認識できないなどの大幅な知能の低下がみられる少女の「意思」を尊重することが現在のひなにとってベストな選択なのかという疑念はクリアに解決はされていない。

例えば智代アフターでは、精神的に問題を起こしている張本人からの視点が入っていることでこの問題は回避されている。AIRでも、観鈴が母親を選んだあとに、会話が成立する状態に戻ってから「ゴール」のシーンが描かれる。麻枝准原案のSummer Pocketsでも、うみは一度は退行するものの、Pocket編ではうみが知性を保った状態でしろはを救うために奔走するという形が取られているし、Kanonの真琴ルートは秋子さんを筆頭とした家族で一体となって真琴を介護するような態度がある程度の倫理性を保っていた。

一方で、『神様になった日』では合意が成立するか危ういような状態のひなと「恋人」として生きていく決意をしており、このことには極めて危うい印象を抱かざるを得ない。正直なところ、陽太の声優、花江の甘い声での演技も相まって性犯罪者が幼い子供を手籠めにしている―そんな印象すら抱いてしまった。

「あの夏」は映画でも語られるようにひなにとって最良のものであり、望んだものであることは確かだが、現在のひなにとって何が最良か、もっと葛藤する描写がなければ主人公の選択に納得感を抱くのは難しく思える。

また彼は「病気」を「治療」することを将来の夢にしているが、むしろ彼による「治療」は「彼の描くひな像の再構成」になってしまうのではないか?そこに本人の意思はあるのか?という倫理的問題もついても作中で提示されたのにもかかわらず、クリアな回答は特になされなかったように思える。

結局のところ麻枝作品に横行する「キャラクターの意志に対する無神経さ」がここでも現れたように思える。

他にも伊座並の問題を解決するにあたって、伊座並の死んだ母親を騙る、違法な金利をたてに借金返済を迫っていた借金取りが、きちんとした謝罪もなく仲間に加わるなど倫理的な雑さは随所に見て取れる。

このような雑さも相まって、はっきり言ってしまえば最終話では「泣き」よりも「不快感」が来たというのが率直な感想だ。

セルフオマージュのから滑り

前項ではひなの意志の問題を取り上げたが、子細に見ていくと物語上はかなりひなはしっかりと意思を示しているのではないかとも考えるようになった。

それを否認するのは冷静に考えると、それはそれで「意思を持っていないようにみえる」キャラの造形を尊重していないのではないかとも自問自答してしまったのだが、よく考えると前項のような思考に初見において至った理由としてはセルフオマージュの存在がある。

ひなが陽太が好きであることを改めて宣言する雪の上のシーン、これはAIRの観鈴が母親を求めるシーンに酷似している。このセルフオマージュは、キャラクターの意思から出た発言というよりも台本に描かれたセリフであることを強く意識させてしまっており、かえってひなにシナリオが「言わせている」感を増させていたように思う。

AIRは批評の場面ではしばしば、「白痴の美少女を所有する願望」を満たさんとする「レイプファンタジー」との批判を受けている。これはAIRに関しては的外れにも思えなくはない。一方で麻枝が退行していくヒロインと向き合うシナリオを書くのは3回目(Summer Pocketsなどの原案レベルでは4回目か?)であるため、「退行するヒロイン」を見てしまうとこのような観点から批判が可能ではないか?ということを個人的には真っ先に考えてしまう。

この点において、『神様になった日』は「恋人として生きていく」選択肢を選ぶというおおよそ最悪な展開であった。ゆえに個人的なことを言えば最終回には不快感が先行してしまった。


結びに


彼の2012年の作品に『終わりの惑星の Love Song』というものがある。割と平凡に思えてしまうファンタジー小編がそのまま曲になったようなものであり、当時は受け付けなかった。

しかし今になって聴き返してみると、『終わりの惑星の Love Song』は当時流行っていたボカロ楽曲的文脈を踏まえて、彼の世界観を表現しようとしている工夫が見て取れる。実際これをきっかけに麻枝准の世界にハマったとの声も散見される。そのような点を踏まえると、あのアルバムは常に新しいものを取り入れ、新しいファンを取り入れていこうとする麻枝准のストイックさが表れた作品にも思える。

彼に対するインタビューでは、大量の音楽を聴き、苦しみながらもエゴサを通して真摯に作品作りに向かう姿勢がしばしば語られる。『神様になった日』も麻枝准が真摯に作品作りに向かい合った結果生まれたものであることは間違いない。

『神様になった日』にしても、美少女アニメの体を取りながら、これだけ重い話を扱うのは昨今では稀有かもしれない。

一方で麻枝准的な雑さというのは彼のデビュー当初から一貫して存在しており、それが無駄に知識を蓄えていくにつれ、自分としては受け入れがたくなっているのも事実だ。いい加減我々の方が、「今を生きる青年たち」に「泣き」のシナリオを見せようと奮闘する「麻枝准」を卒業すべきなのかもしれない。

『神様になった日』はそのように思わせる作品だった。


参考にした記事

個人的に面白かった点としては『Angel Beats !』 の美術面での統一感を挙げていた点。たしかに単純に2011年のアニメということを考えたときに『Angel Beats !』はアニメとしてのクオリティが飛びぬけていたように思える。『神様になった日』も高品質なアニメなのだが、なにかとびぬけたセンスのようなものは感じなかったように思える。統一モチーフとして用いられていた金魚の意味はよく分からなかったし。

↓は最終話以前にかかれた感想だが、ほぼほぼ神様になった日のやりたかったところをうまくとらえている記事に思える。

↓はセカイ系モチーフが後退しているよねという話を指摘した記事。執筆時参考にした。



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