パラサイトな私の日常 第9話:侑の過去
混み合う電車でまた一時間半。終着駅が近付くにつれ、乗客はどんどん減っていく。その間、侑はほとんど口を開くことはなく、終点『下河原駅』に着いた。
悠が二週間前に大泣きした公園。
12年前の数カ月間、二人が過ごした公園。
相変わらず、古びたベンチは同じ場所にあり、二人の他には、誰もいなかった。
駅の自動販売機で買ったホット缶コーヒーで手を温めながらベンチに並んで座る。無言の侑が口を開くまで、悠は何を言うでもなく、ただ静かに待っていた。ふいに思い至った様子で侑が顔をあげ、横にいる悠の顔を見つめて口を開いた。
「悠さん、今まで誰にも話したことがない話、聞いてくれる?」
父方祖母である昭恵は、この街で女手一つで一人息子の佳彦を育てた。佳彦は全国模試で常に上位になるほど優秀で、高校卒業後は国から補助金を受給し、東京にある大学の医学部に進み、そのまま大学病院で医師となった。
医師としても有能だった佳彦は、大学病院の院長から見込まれ、院長の娘である綾子とお見合い結婚をすることになった。いわゆる政略結婚のようなものだったけれど、佳彦は、聡明で穏やかな綾子を心から愛し、綾子は、無口で不愛想だけど心根の優しい不器用な佳彦を心から愛した。やがて侑が誕生し、家族三人仲睦まじく暮らしていた。
「5歳の誕生日を迎える二日前、夏休み中だった俺は、誕生日プレゼントにガオレンジャーのベルトが欲しいとねだって、母とおもちゃ屋に出掛けたんだ——」
そこまで、話すと侑は苦しそうに顔を歪め、声を詰まらせた。悠は慈しむように侑の背中に手をまわし、さすっていた。少し落ち着いた後、また話し始める。
「悠さんは、覚えているかな……。
13年前の8月8日
『銀座無差別殺傷事件』――」
侑は苦しそうな顔で悠を見た。かすかに覚えていた。連日のように、救急車やパトカーのサイレンが鳴り響く事件現場がテレビで報道されていた。『銀座無差別殺傷事件』は、会社を解雇され自暴自棄になった犯人が、手製の爆弾とナイフで23名を殺傷した凄惨な事件だった。侑は続けた。
「俺たち親子の前にちょうど犯人が飛び出てきて、咄嗟に母は俺を庇うように抱きしめた。その時、犯人は母の背中を何度も刺し続けて……殺されたんだ……」
事件後、マスコミは身を挺して守った母 綾子を美談として報道し、そして、生き残った侑や、大学病院にいる佳彦や綾子の父まで取材しようと連日マスコミが押し寄せた。
侑は事件のショックで声がうまく出せなくなり、佳彦は仕事を理由に家に帰らなくなった。
母方祖母はショックのあまり寝込んでしまい、侑と祖母はマスコミから逃れて療養するために、使用人や医師やカウンセラーたちと一緒に那須の別荘で暮らし始めた。
そこで一年ほど暮らしていたが、祖母の病状が悪化し、入院することになった。それを機に、侑の小学校入学や今後のことも考えて、年長児だった夏休み中に、昭恵の家へ移り住むことになったのだった。
「そんな時、この公園で悠さんに出会ったんだ……」
夕日は沈み、あたりが暗くなりかけていた。
「悠さん、これ覚えてる?」
侑がおもむろに鞄から、ボロボロのノートを取り出した。
「これ……、私が昔あげた……?」
それは、侑が大好きだったサルの4コマ漫画集だった。
「俺ね、あの事件以来 笑ったの、あれが初めてだったんだ」
穏やかな表情で見つめる侑。
「辛い時や、しんどい時、いつもこのノートを見て元気をもらってたんだよ。何度も何度も読み返したからもうボロボロ……」
苦笑いする侑からノートを受け取り、パラパラとめくると、劣化して破れたり薄くなったりしているところをセロハンテープで補強し、大切にしていることが伺えた。
5歳児だった侑が、明確に悠のことを覚えていたのは、毎日のようにこのノートを見て、思い出・記憶の更新をしていたからだった。
『侑があまりにもよく笑うから、「そんなに気に入ったのならあげる」ってあげたんだっけ……?』
悠にとっては何でもないノートだったから、渡したことすら忘れていた。
「俺ね、小学生になってからも、ばあちゃんに頼んで休みの日とかにここに来てたんだよ。自転車に乗れるようになってからは、自力でも時々来てたし、中学の時は、部活のない日は必ずここに寄ってから帰ってた。悠さんに会えないかなと思って。9年間……すごくない? まぁ一度も会えなかったけどね……」
そういうと自虐的に笑った。
「高校に入ってからは逆方向だったし、流石に諦めたよ。悠さんも高校生になったから、ここに来ることはなくなったんだよね? 後から気付いたよ。……でもあの日、偶然 電車で悠さんと再会した。俺はすぐに悠さんだってわかったよ! 小説を読む姿も、ノーメイクの顔も、中学生の時のままだったからね。俺にとって悠さんはあの頃のまま、特別で大切な人なんだ……」
ここまで聞くと、悠は無意識にベンチに座っている侑の前に立ち、静かに抱きしめていた。
「ごめん……ごめん侑。ホントにごめん……」
抱きしめながら、この12年間、一度もこの公園に来なかったことをすごく後悔した。
「悠ねぇ……気付くのが遅いよ。俺ずっとずっと会いたかった……」
侑は泣いていた。5歳児だった侑の姿が重なって見えた。気付けば、互いを「侑」「悠ねぇ」と呼び合っていた。そうだ、あの頃、仲良くなってから、最後の方はそう呼び合っていた。悠はやっと、鮮明にあの頃の記憶が蘇っていた。
抱きしめたまま、どのくらいの時が経っただろうか。
悠は溢れる気持ちを抑えられなくなり
『侑……好きだよ』
そう言おうとした時———
≪夕焼け小焼け≫ の音楽がけたたましく鳴り響いた。
二人は互いにビクッとして離れ、顔を見合わせた。びっくりした顔がお互いにおかしくてクククっと笑った。
「体が冷たくなったね。帰ろうか」
悠は侑の顔を両の手の平で包み込むようにして、親指で涙をぬぐってやった。
「悠ねぇ、手つないでいい?」
悠たちは電車には乗らず、手をつないで家まで歩いて帰った。
「悠ねぇの家、ここだったんだね」
互いの家が、駅を挟んで徒歩十分以内の距離にあったことを知る。
『こんなにも近くにいて12年も会えなかったなんて……。まぁ私のルーティーン生活だと、ほとんど誰とも会わないんだけど……』
「悠ねぇ、俺、年が明けたらすぐ大学の一次試験なんだ。二月からは高校も自由登校になるし、一次試験の結果が出たら、二次試験と新生活の準備も兼ねて、東京の家でしばらく暮らそうと思う。父とも一度きちんと話をしなきゃなと思ってるし……。明日からは勉強に専念するから、悠ねぇともしばらく会えないと思う。……2月の下旬にはこっちに帰ってくる予定だから、その時は会ってくれる?」
「もちろんだよ。……侑、勉強頑張ってね。あ……ちょ・ちょっと待っててくれる?」
そう言うと、悠は足早に家に入り、クリスマスのラッピングが施された包みを抱えると、また外に出た。
今日、出発のギリギリまで迷って、結局 持って行かなかった侑へのクリスマスプレゼントだった。
「これ、私からのクリスマスプレゼント」
「うわぁ! 開けてもいい?」
プレゼントはチャコールグレーのマフラーだった。
「ありがとう! 大事に使うよ!」
侑の手からマフラーを取り、背伸びをして首にそっと巻いてやる悠。
「ありがと……あったかい……」
照れながら、マフラーを口元まで被せる。
「あ、実は俺も……」
そういって、鞄から小さな紙包みを悠に渡す。
封を開けると、後ろのノックカバーに『サルがレモンを抱えたモチーフ』がついたシャープペンシルだった。
「サルとレモンって、俺たちの象徴でしょ? このサル、悠ねぇが描くあのサルに似てない? 実は俺も同じの買ったんだ。……子どもみたいなプレゼントでごめんね……」
恥ずかしそうに、口元にあるマフラーを弄っている。
『そういえば12年前、いつもレモンキャンディーを持ってたな……』
侑からは、いつもレモンのいい香りがした。悠はそれを思い出して、クスリと笑う。
「あ、今 子どもっぽいって馬鹿にしたでしょ?」
「え? 違うよ! そういえば、いつもレモンキャンディーもらってたなって、今思い出して懐かしく思ってたの。侑があの頃の思い出を、こんなにも大切にしてくれていて、本当に嬉しいんだよ。……でも当時そんな辛い思いをしてたなんて、知らなくて……何もできなくてごめんなさい。辛かったよね……」
「ううん。ばあちゃんからも口止めされてたし、当時は俺もそのことに触れられたくなかったし。そもそも話してなかったんだから、何もできなくて当たり前だよ。むしろ、知らないまま普通に接してくれたことが良かったんだ」
「今日は、当時の辛い話をさせちゃったけど、その……PTSDとか、大丈夫なの?」
「うん……。何かがきっかけで、フラッシュバックが起こることはあって、その時は心療内科に行くこともあるけど、もうほとんど良くなってると思う」
「そう……。今日は色々と話してくれて、ありがとう。侑のこと知れて良かった……。このシャーペン大事にするね」
「うん。……悠ねぇ……ハグしてもいい?」
突然の申し出に、自宅前だということも忘れて、激しく打つ心臓を落ち着かせながら、手をおずおずと広げた。侑が悠の体を包み込む。
「あの頃と、大きさが逆転しちゃったね」
いたずらっぽく笑う侑。
「だ……だね」
侑の体温が悠に伝導すると、ガチガチに固まった体が少しずつ緩んでいく。緩んだ体で悠も侑を抱きしめ返した。
侑は、辛い経験をして心に傷を負い、声が上手く出せなくなった。父親も離れ、祖母は倒れ、この地にやってきたが、辛い心中は誰にも話せなかった。吃音のせいで友だちにからかわれて、人と関わることを諦めて…。そうやって孤独に生きてきたのだ。
子どもみたいな、大人みたいな侑。
侑は自分に何を求めているのか……。
亡くした母親像なのか、それとも姉か、恋人か、友だちか――。
でもそんなこと、悠にはもうどうでも良かった。
『自分たちの関係を表す言葉なんていらない』
悠は、ただただ『侑が愛おしい』
そう思った。
☞☞☞ 第10話 それぞれの新年 ☞☞☞
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