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音読堂(1)

僕は一人で飲むのが好きだ。といっても酒には弱くビール一缶で酔いが回ってしまうたちなので、近頃はビールよりアルコール度数が少ないチューハイ2缶を近所のディスカウントショップで安く買って、しめしめと柿の種をつまみにして、金曜日の夜に3000円という破格のビジネスホテルのヤニくさい薄暗いシングルの部屋で晩酌をした。

今朝、僕は気付かないうちに寝ていただろうことを上体を起こして目を半開きのまんまの状態で理解した。着の身着のままのスーツの窮屈さとその内ポケットから飛び出たであろう名刺が、バーッとカーペットの上に散乱して傍らにちょこんとすべて吐き出されたであろう名刺入れが口を開けてぼーっとしているのが見えて、多分おそらく寝癖がすごいことになっている。

このホテルはビルとビルの間にあるので窓を開けても大して良い景色を見られるわけじゃない。締め切られた窓は何となく清掃がいきわたっていないことは見て何となく分かる。子供の時は親に連れられて泊まった旅館に行くと、すぐに僕は窓を開ける係に任命されたのだが、ある時窓を開けても途中までしか開けられなくて「お母さん、なんで窓が開かないの?」と聞いたときに後ろにいるはずと思っていた母や父がいなくて、部屋がものすごく広く感じたのを今でも覚えていて、それからは何となくホテルや旅館に行っても窓を開けることはしなくなった。

名刺の一枚と目がある。といっても自分の名前がそこに書いているだけで何の変哲もないただの名刺だ。でも、自分の名前なのになんか自分の名前じゃない気がして、学生の時には人には名字で呼んでもらうようにしてもらっていた。母方の祖母が荒巻義雄のファンでずいぶん前にアニメ化もされた「紺碧の艦隊」という小説が大のお気に入りだったそうで、主人公の山本五十六から名前を拝借して僕の名前は「田辺五十六(いそろく)」ってことになったわけだが、僕はまだ心の中で自分の名前は、本当はどこか違うところにあるのではないかとも思っている。

まあ、そんなしちめんどくさいことを考えることはやめにしよう。この前(自称)歴史好きな上司からからかわれて、僕の同僚に(同僚といっても他課にいる地味な女だが)杉野という名字をもつ女性がいて

「杉野ー、杉野はいずこやー」

と杉野さんがうちの課の前を歩いている時に上司が僕を指さしていじってくるのは、何というか、「まあ、この人は暇なんだろうな」と僕は目の前にあるPCに経理課に提出しないといけない書類作業に集中して聞こえていないふりをしていた。

本当は杉野孫七に最もゆかりがあるのは、広瀬武夫なのだが。どうやら上司はそこまで歴史に詳しいわけじゃなさそうだな、と内心はちょっと笑っている。断わっておくが、僕は右派でも左派でもなくリベラルでもなく、ただ穏便に省エネな生活をしたい名前以外はごくごく一般のサラリーマンだ。

そんな顔には表さないが無意識化にたまっているであろうストレスも洗い流してしまおうと、洗面台に向かい顔を洗う。

そういえば、なんかうんとのどが渇くなあー。

僕は財布から小銭を引き出してくしゃくしゃになったジャケットを脱いで、ネクタイも外した状態のワイシャツ姿で部屋を出た。

ロビーに自販機があったはずなので30メートルくらいの狭い廊下をエレベーター目指して歩いていると、ドアが開け放たれた状態の部屋があった。

「掃除中の部屋だろうか」と思いつつそんなに部屋の中身については興味がなかったので(多少興味はあるが僕の場合、自分が人から部屋ををのぞかれたくないからそういうのはあえて見ない)「見てませんよー」と視線をまっすぐにして壁を見つめたまま、すたこらさっさとポケットに手を突っ込んだままにステップだけはサザエさんのエンディングで流れるサザエさん一家のピョコピョコさで歩いた。

と思いきや、2,3歩後ずさり体をのけぞらせて、今思い返せばそうなのだがその時は何となくその部屋に興味が引き寄せられたのだ。

その部屋にはベッドもホテルらしい椅子と机もなくただカーペットの床が向きだされているだけで、8畳ほどの部屋の中央には簡易な机が置いてあり、その上に小学生の時一度学校の放送室でみたことのあるマイクと水滴のついたコークがあった。

瓶コークは初めて見たかもしれない。机にはマイクとコークのほかにもラミネート加工された紙が置かれていて

「お飲み物はご自由にどうぞ」

と書かれていた。

この時の僕は土曜の仕事のない日でフリーな時間で、しかも朝早くのホテルで迎えた朝という妙なテンションだったから、正直どうかしていた。

一応もっていた160円を机において、置いたと思ったら「そういえば瓶コークってどうやったあけるっけな?」と思って机に置いた100円だけを手に持ち、コークのふたに100円をひっかけた状態のコークに向かって膝蹴りをしたら、なんかふたが空いたわ。

一口飲む。カラカラの喉に冷たいシュワシュワが染みわたって超旨かった。

何だかテンションがもっと上がって、尻ポケットに忍ばせたスマートフォンを起動して最近はまっている作家の記事を、なんと、音読したのさ。

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(男がスマートフォンとコークをもって体をゆすって動いている姿)

(カメラをここで引く)

(ドアという”枠”に室内にいる男が収まるところを廊下からカメラを映しているというアングルで)

(部屋が徐々に閉まっていく)

(ドアの上部がアップで映し出される)

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そこには「音読堂」というネームプレートがかけられていた。

…ON AIR……

「二足の草鞋ラジオのワラジオ第8回目」

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おしまい

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