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生活保護日誌.87

くっそーーー。なにくそ、てやんでいバーローちくしょう。

どうも、二足の草鞋です。本日は新しい月が来てその分増えた通信料をスマートフォン介して放出し、自宅でカタカタキーボードを打っています。

今壮絶に、ひっじょーに、情緒不安定です。地域に横たわる”見えない流れ”に気が障ったのでありましょうか。

新年度、社会の潮流に乗っている人々の新しい生活のはじまり。いつもとは違う生活。そこにかかるストレス。新社会人またはその人たちを迎える既社会人。

当事者じゃないので分かりませんが、きっと、無理しているんでしょうね。

いや、無理すんなっていうのが土台無理な話ですが。

無理を前提にした過剰なサービス、過剰なまでな気遣い前提の環境。

笑顔でハイハイ指示された通りに動いている人が、例えば、焦って道端のごみにけつまづくかもしれない。そのごみがころころと道路のど真ん中に転がり、転がった先を今大型トラックが通ろうとしている。そのトラックの運転手は連日の配送で睡眠不足で神経衰弱。おまけに、次の配送まで時間がなくウトウトしながらも焦っていて、目の前にふっと”現れた”ごみに対して条件反射でブレーキを踏む。轟音ともいえるそのブレーキ音に、そばを横切る今ちょうど横断歩道を青信号で渡ろうとしているベビーカーを押す女性がびくっとして、その緊張感を察知した赤子が大声で鳴き出す。。。etc…

てな感じで誰かの無理きたしが連鎖反応を起こして、結果として見えない何とも言えない邪悪な、おぞましい、何だか嫌な予感がする・体調がものすごくすぐれない一日へと感ずるような僕の状態となる。

僕の妄想ですけど。まあ、僕は生活保護なんで、社会のことを考える喫緊とした必要性はないのですが僕が生活する上で利用させていただくサービスの担い手である人々は社会に属して懸命に自らの生を全うしていますし、僕は食べることとか水を飲むこととか今のところ、そういった地域の人々の助けを経て生かされているので、人々が無理をしている分僕も少なからずそのしんどい影響を受けてしんどい気持ちになっているのだなと思っています。

季節の変わり目でもあります。4月になって急に暖かくなって、その暖かさが例年を振り切って夏日になったかと思いきや、今度はスーッと寒くなりやがりましたよ、はい。まあー天気は自然現象なんで”例年”なんて言葉を使って予測することが土台無理な話です。

どんな状態でもその状態の自分が与えられていると捉えて、その中でできることを探していく。ん、というか、生きているだけで、偉い。

本当まじな話です。しんどくなった空元気の自己励ましに過ぎませんが。

生きているだけで迷惑をかけている。

今日だって、地方都市の街を歩いていて、一通の一車線道路。後ろから車のエンジン音がするのに気付くと、すぐ頭を下げて、その場で待機。

傍から見ると「何してんのこの人、武士?」と訝しがること必見です。

僕は向かう丁字路の、車とは反対に左に方向転換して丁字路の「一」なる新たな道にのっそりと後追いする形で出ますと、車の方はハザードランプ焚いて、事故っていました。僕の見間違いかもしれません。でも、その時買い物なりコインランドリーなり空腹でたまらなくて焦ってゆっくり動いていましたので、本当に動くだけで誰かしらに迷惑かけていると思うと、外出たくありません。でも、頭を下げて縁を切る。次に僕が何かしらつらい状況に陥ると思いますので、貴方様は先に災難を越された。後は、お任せください。

ん。さっさと切り替えろ。反省したら、すぐ顔洗うか、今日終わらせて寝て明日の自分に繋ぐ。

でも僕には死活問題。意思表示をあらかじめする。待つ。「貴方が先にお通りください」と全身を以てしての、命がけのお辞儀。こちとら人から礼儀正しいとか誠実とか言われて礼儀作法身に着けているわけではごぜえません。

問答無用。礼儀作法がなければ、死にそうなんです。

人と目を合わせない。目を合わせるとその場に、居着く。

居着いてしまうと、自分が今どこにいて周りに何があってという意識がどこかに飛ぶ。おそらく人と目を合わせたりすると、いや、対象に向かって視点を定めてしまうと”意識界”に飲まれてしまい周囲の構造物と自分の現在地がまるごとどこかに行く。

そしたらどうなる。地方都市と言ってもコンクリートで固められた、行き先を人工物で指定された道、狭い狭い人一人分しか通れなさそうな人の気遣い前提で、至近距離で人とすれ違わなければ通れない、人の存在を愚弄しているかのような、道。

(すいません、これ、全部僕の世界観なんで読み物としてお楽しみくだされば幸いです)

人は社会的な生き物であると同時に、生き物です、獣です、自らの皮膚から離れたらもう得体の知れない存在がうよついている(僕もその中のひとりです)、未確認生命体でせう。

そういった存在と、道を歩くたんびに遭遇し(または他にとっては僕自身と遭遇させられて)、

逃げるか、

お辞儀して待つか、

一礼しながら歩き切るか、

モノボケするか(近くにある構造物を利用して(例えば項垂れた昔ながらの電灯があったらそこにシャワーヘッドがあるかのように、シャワーを浴びるパントマイムをする、めっちゃ不審です。でも緊張からの緩和で、人がどこか去ります。去ったら、ラッキー。これが僕の道や、ゆずらんど)、

我妻善逸、霹靂一閃で、人の背後をサッと取ってかわすか。まー我流ジョギングでまるで居合道のような動きがでけるようになりやしたー(なんか、自慢しちょって鼻につくな)、

もう、人とすれ違うたんびに死にそうです。

そういう世界観に生まれてしまった、世界のあらゆる現象の中で僕だけがその変化に気付く使命を与えられてしまった?なんて、まあ、苦しくもありますがとても刺激的な毎日でもあります。

そうして退屈な生活をまるで喜劇役者のように過ごせている、なーんて、こちとら死活問題です。

てな感じで買い物行くにも一苦労の毎日、継続中。

モノボケに憑りつかれていた時はもう今思い出しただけで恥ずかしくて悶絶絶倒。女性の裸体銅像を見て志村けんさんみたく「いいよなぁ~」の顔をして、かといってその顔を続けるわけでもなく顔をしゅっとまじめにしていかにもスケベな表情はしていませんよ、と素知らぬ顔でまた歩く。

まじめな顔、瞬間見せるスケベな志村風の表情、そして、またまじめな顔。

女性とすれ違うと後ろをちらっと振返ってまた志村風スケベにへら顔。

んん、いいや、悟られてはならぬ。

ふんぬ、まじめだよ、ぼかぁーで、まじめ顔。

街を歩きながら”スーパーギャグスター”をマリオさながらゲットして

テンテッテレーテーレテッテーの脳内BGMを流して、街がもたらすあらゆる現象を捕まえては瞬時にボケ倒し、また、瞬時にボケを繰り出したら、

笑われるか、訝しがられるか、スマートフォンで写真を撮られるか。

知るか、んなもん。こちとら、死ぬ気でギャグして人払いしてスーパー行って食材求めて飯食って命繋げて生きとんじゃ、あほんだら。

まあ、最近は、スーパーギャグ二足の草鞋は閉店しておりまして、腹の中くつくつ言わせて自分自身が自分自身に笑い殺されそうになるのはそれはそれで地獄でした。

本当、芸人さんは凄いと思います。ギャグはふざけてなんかいません。自らの腹から込み上がる笑いをかみ殺して、真摯に、まじめにボケる。周りからはふざけているように見えますが、こちとら真剣に死にそうになりながらボケているんです。

ほんと、「なんだチミは!?」ですよ。

こちとら毎日、

朝、卵かけごはん、1杯。

昼、卵かけごはん、2杯。

夜、卵かけごはん、3杯。

毎日1パック6個入りの卵を食べる質素でまじめな食生活をしているっていうのに、何笑っているんですかチミは!?、ですよ。

ほんと、まじな話で。

(ワクチン健康被害等で悲しい思いをなされている人、すいません)

COVID-19とか何とかじゃなく、僕は”ギャグウイルス”に罹っていやもうほんとうにしんどかったです。でも、そうでもしないと、人は自らの意志で道を選んでいるふうには到底思えない、何となくとか阿吽の呼吸で道を歩いていると思いますが、僕にはそれができない。

「生殺与奪の権を他人に握らせるな!」っていう”冨岡義勇二足の草鞋”がべらぼうにどやしてきて、後ろをかすめる車や自転車などの車両の存在、ビルはもう怖い、角から先が全く見えないからバッと人やら車やら猫やらカラスやらが現れるんじゃないかと(まあ来るときは来ますからね)怖すぎる。

そのたんびに

~水の呼吸 拾壱ノ型 凪~

で全集中でゆっくりとした動きで新たな道に一歩踏み出す。

僕はもう「逃げる」だけのコマンドでは太刀打ちできません。それでこの前、死にかけました。

人から逃げて、車から逃げて、猫やセキレイ、すずめからも逃げて、挙句の果てに街の照明の明滅からも逃げて、やっとの思いで家に帰りついて

ああ、この世には逃げ場所なんてどこにもない

と絶望の淵に立たされた時に

いつも当事者会でお世話になっている”地域のゴッドマザー”的な女性に電話して

「僕、今死にそうなんですーーー、うわぁーー、どうしたらいいんですかぁーーーーーー」って

大の大人がベソかいて半狂乱で電話口で近所の目を憚らず叫ぶ。

『うん、それがまとも。貴方はそれに気付けるんよ』

と彼女も涙声で話してくれて、もう、馬鹿みたいに泣いて訳が分からなくなって、しまいにはどうでもよくなって、

その日ぐっすり眠れましたー、ケロッ。

まあー、数か月前の話ですけど、ね。

歩くたんびに人をやり過ごせる方法が身に着く。得になるから、人にいい風に見えるからとかじゃなくて、どうにもできないくらいに追い詰められた時に初めて自分が持っているすべての素質総動員して体が勝手に動き出す、その何気なく過ごす毎日が地獄であり、でも、その地獄によって人々を故意に傷つけることなしに自らの意志を以て耐えるすべを、確立していく。

苦しい。本当に生きているだけで苦しいです。でも苦しいからこそ、死にそうになるからこそ生きる知恵が目の前に、立ち現れる。そして、自分を守る術が磨かれることによってさらに状況が苦しくなる。それでも、

耐える、耐える、耐え続ける。

健康とか頭が良くなるとかじゃないんですよ。

座禅組むとか散歩するとか文章書くとか瞑想するとかって。

もうこの世はどんどん便利になってどんどん人との距離が離されながらも人との距離がぎゅうぎゅう詰めになって、逃げ場所がどこにもなくなる。

自動運転とかになってみなさい。人が運転するから、まあー事故はするけど操縦者が人だから、まだ、その”走る棺桶”が(車運転する人すいません)人のコントロール下で人の意志の範囲内で留まることができる。でも、それがコンピュータに置き換わったらどうなる?ただでさえ人工物でコンクリートで固められた道をぎゅうぎゅうになって人同士心を摩擦させながら歩いて、辛うじて目的地に着けているのに(自分の世界観なのに”人”って言葉使って安易に一般化して、すいません)、コンピュータの中身ブラックボックスの得体の知れない”走る棺桶”がグレードアップして”殺人棺桶”になったら、もう外に出ることなんてできやしませんよ(妄想垂れ流しでごめん)

だから僕は、徐々にこうして人との距離を取る術を確立していく。

そして、今は地方都市にいますが、人が全くいない限界集落通り越したところにでも移住して、そこでも生活保護取れたら取って宮澤賢治のように創作しながら、畑耕しながら自らの命が尽きるのを責任もって全うしたい。

人は生きてるだけで迷惑かけてる。だからと言って死ぬわけにはいかない。今もこうして命は生きることを通じて意志を表明し続けているわけですから。人を傷つけることを避けても、自らからこみ上げる”獣性”、業からは避けえぬ。だから、辛うじて創作を通じてじっと意味なきことに時間を注ぎ込み、紙、木を通じて、自然を切り崩すことで自らの獣性を諫めることができ、そうした祈りの毎日に一生を終えることができたら。

僕の中にいる怒れる何者かに対して、書く、奏でる、舞う。

なーんて、何悟ったこといってんだ、こら。今考えている範囲の未来なんてぜーんぶ、うそ、嘘です。言葉なんて発した先に嘘になりますから。

まあ、未来は今と地続き。言葉発さず(たまにはこうして泣き言一記事二記事は漏らさせてください)言葉は発した瞬間、消えるもの。言葉じゃないものはすなわち、自ら行動した感ずる動き、感動。僕は無口だからこそ、行動で自らの存在を発し続けたい。

なーに言ってんだ、分かんねえからこそ、僕はこうして自分にはわかっていることを御身に宿しているんでげぇす。自分独占極まりない奴です。はは。

ところで、

正直言います。びっくりされるかと思いますが

「免許証返納」

致しました。

狂気の沙汰だと思うのはごもっともです。なんせまた自動車学校に入りなおすのならば50万円また新たに必要になる。50万円をどぶに捨てたも当然です。

でも、僕は今、右足の親指の先っぽが、円を四分の一にした範囲だけ、感覚がないんです。

歩き続けて、歩き続けて、これでもかって歩き続けて、条件反射でクロックスで出掛けるものだから足の裏がズタズタになるくらい歩き倒して、それでも一度歩き出したら、帰るまでが遠足ならず、必ず、元来たところに帰るまで、歩き続けなければならない。

気付いたら、右足の親指の先っぽの感覚が、ないんです。

もうどこかに行ったのでしょうね。

だからこそ、自分の身体を引き換えにしたからこそ、もう戻れないからこその

覚悟の立ち上がり。

痛みを知って、傷み切って、もう切り離された肉体に変わってどうにかやり過ごしてきた自発的な試み。それが、他人にどう思われようが損か得かなんてどうでもいいです。

もう、僕が行なった意味なき行動は、右足の親指の先っぽという小さな部分の欠損ですが、命がその部分に繋がっていたんです。

切り離された肉体に変わって、もう存在しない過去の出来事が、もう僕の覚悟の立ち上らせを起動させました。

僕はごみ収集場まで歩いていきました。

ゴミ収集場は、

”物の墓場”。

僕はどれだけ身に余る便利さを享受していたのか。

歩く範囲で完結する生活は、あまりにも物が持てなさすぎる。

多くてもリュックサック一つ分。それ以上持つといいや、リュックサックすらも持っていたらその場に居着いてしまう。お辞儀ができない。

お辞儀できなければ、人と視線が合ってしまう。人との視線のかわしあいは、懐の刀を抜くような緊張感をもって最後の手段として持つ。

お辞儀は頭から出来事を振り落とす。

もうこれ以上この機会、この縁に対して蹴りをつける。頭にへばりついた執着を寸で身を以てして振り落とす必死の叫びです。

すいません、生きていてすいません、ご迷惑かけてすいません、僕がいるからこそあなたはこの道を通れない、僕がいるからこそ貴方は僕に道をお譲りになろうことかと思いお逃げなされますが、貴方はそれに知らず知らずに罪悪感を抱いていたのだとしたら、重ね重ね、僕がここにいて、申し訳がありません。

そうした、僕が生きていることでの、活動していることでの罪による謝罪を込めて。でも僕自身は、自分を守ることに決めました。

今まで辛かった自分を守るために。そうした自分を守らなければ、今まで辛くて死にそうで何度も何度も「生きていてごめんなさい」と引きこもって、でも生まれてしまったから、自分の存在を生まれながらにして人質に取られて、生きなければならない使命を生きている限り、背負わされている。

「なんで僕を生んだんですか」

と母に詰問したりしました。今考えるととてもひどいことです。謝ってもこの罪は消せきれず、死ぬまで僕の頭の片隅に残り続けるでしょう。

本当、女性って、生きているだけですごいですよね。

生まれながらにして男に羽交い絞めにされて孕まされる危険性を帯びながら、どうにかこうにか社会に適応しおうとして、くだらない人間関係の政治に加わらなければならない、自分の身を守るために守ってもらう男を見つけるのも生存戦略のうち。たとえその男がろくでもない奴だとしても。

そんなこんなで生きているだけで身の危険を感じながらゼーハーゼーハーしているのに、自分の世界観を構築するなんて、到底無理な話です。

メディアの影響、親族とのかかわり、世間体、etc。

僕はもう、結婚して子供を産み育てるっていうのは生物に与えられた絶対条件ではなく一つのセーフティーネットだと思っています。

この世界は人以外にも、他の哺乳類、昆虫、植物、微生物とありとあらゆる存在が生きています。その存在それぞれがそれぞれの生き方をしています。

だから、子孫を遺すというのも自然界から見たら、一種の手段。

これは僕の諦めがもたらした、すっぱいぶどう。

そうですね、その意味合いも込められています。

母親であると同時に、一人の女性。その人が時代によってやり込められて、仕方ない、仕方ないと心の中でつぶやきながらそれでも毎日なるようにしかならないと生きてきた上での、僕の誕生。そもそも僕は本当は女の子として生まれるはずでした。でも男の子として生まれた事実によって、今僕が生きています。ちなみに言っておきますが僕のセクシャリティーはヘテロセクシャル。女の子といたしたいに決まっています。男の子ですから。

彼女は本来は女の子を産み育てて、その女の子を通じて彼女自身をも投影して彼女の心を子育てという形で救ったのかもしれません。でも、上二人男の子でもう一人の男の子。当時の無念さは計り知れなかったでしょう。

でも生まれてしまったからには仕方がありません。

もう母子関係、ドメスティックなあの環境はこりごりです。自分の世界観を時代にやり込められたことで持てずにいて、そうしてようやく手に入れた「母親」という権力。彼女自身が悪いわけじゃなく、その条件プログラムによって母子的関係性が起こりうる。

僕も自分で考える余地をはく奪されました。

この話は長くなりそうなのでまた今度にしますが、もう家族に対する怒りは絶対視するようなものではなく、単なる過去の傷の疼きとしてたまに痛み出して怒り狂いたくなりますが、そうして当人に怒りをぶつけることは、もう、なくなった。

長兄をボコボコに殴り飛ばし、閉鎖病棟で入院することで決心つけて生活保護を受給する生活を始めました。もう4年が経ちます。早いものです。

サイコパス的に聞こえますが(別にサイコパスって呼ばれても構いません。人を故意に傷つけようとはしませんし、いつの時代も予測が立たない変な奴には蔑称の意味がこめられ言葉を投げつけられます。まあ単なるサイコパスも学名に過ぎませんが)、

長兄をボコボコにしたことで生活保護を受給する決心がつく縁に恵まれたこと。今では有難いことだったと思います。

また、お金ともこれからは距離を取ります。便利さとも距離を取ります。24時間業務スーパーの自動精算機付きレジかご然り、郵便局の受付番号の機械然り、スーパーのセルフレジ然り。

店員がただ立っているだけ。ただ機械がそこにあるだけなのに。

僕はもう便利さの拍車がかかり人が立つだけでその場に括り付けられ、声明を持った人よりも機械のほうが、コンピュータのほうが優先されていく世界が、これからの時代になるのだとしたら、

税金を納めている人、労働をして対価としてもらったお金で自らの心に栄養をお注ぎになられている人、稼いだお金で家族を食わしている人には申し訳ありませんが、

これ以上お金に、便利さに、意味を見出そうとする生活をする、そうして生きることを、死に向かって生とわかちつづける毎日を、僕は送りとうございません。

といっても、こうして生活保護を受けていることも税金を納めている人に対しての負担になる。まあ、ただお金を受け取って地域のサービスを利用してそうしてまた税金を納めるべく働いている人の給料になるということで、単なる細長い抵抗棒みたいな存在ではありますが。

僕は免許証を返納いたしました。車は4年以上乗っていませんし、体を犠牲にしてまでの体験を、僕は死ぬまで一生責任をもって背負う覚悟としたいから。

また僕は分相応な生活をしたい。生活を主として生きたい。

車を使うのは分不相応。僕の世界観なので絶対ではありません。どうぞ、皆様の見える世界でお過ごしになられてください。僕は歯向かう人に対しては、逃げます。全力で逃げます。逃げるか、その場に坐して怒りが過ぎ去るのを待ちます。耐えます。

ですが、ガソリンまたはその排気ガスまたは車に使われる金属類などなど、向かう矛先は自然です。木を切り倒し、石を削って鉄を作りなどなど自然が破壊されていく。

食べ物を買いに行くんだったら歩けばいい。自動車なんて所有すれば、運転したら道路に居着く。駐車場代かかる。エネルギーを摂取するためにエネルギーを使う。まあ、それはそうですが、人一人分以上のエネルギーを消費して一人分のエネルギーを獲得するなんて、僕にはもったいなきことです。

それならば、歩く。歩いて歩いて、疲れたら、諦める。それ以上歩くのは僕には身に余る所存。頭で考えたらそりゃ海外にでも行けますよ、どこにでも行けます。でも僕は、

自らが持つ、いいや、自らに与えられた肉体を主として、生きたい。

皮膚一枚分前に進められただけで上等。うん、上等だ。

生きているだけで上等なんだよてやんでいバーローちくしょう。

一つ一つのことをやる。それには、己の肉体の限界を見極める。

便利さは、結局のところやれることを増やしてくれるが、その分手数が増える。僕今、洗濯機1週間に1回くらいしか回さない。不潔です。そう、不潔、穢れ。

でもその穢れを受け入れてからこその、生きること。

いつも清潔は良い心がけだと思います。でも清潔にした分だけ、自らの体力が消耗して他のことに手間をかける余力がなくなる。

無尽蔵に体力があるわけがない。洗濯する?炊事する?掃除する?それを、毎日?ドアホ、んなもん毎日したら体が壊れてしまいます。

無理をしない、でも、時には無理はしますがそれは肝心な時だけです。こうしてnoteに文章を書くことも、snsを利用することも、自宅でキーボードカタカタ鳴らして近所迷惑なのも、そう、肝心な時。

やらないことを決めること。そうしたら、洗濯だって溜まります。不潔になります。仕方のないことです。でもうんち、しますから。食べて出さないと、人間死んじゃいますから汚いものすでに体の中にあるじゃあありませんか。だから、汚いからって鼻摘まんでヨイヨイサーっと避けていたら、ならないんだよワトソン君。

ごみ収集場まで歩いたっていうエピソードに戻りますが、本当、パッとその思い付きが生まれた時が13時、ごみ収集場まで歩いて帰った時には、22時。計9時間の徒行。とどめをさしたかのように、その出来事をきっかけに2か月ほど足指の神経がいかれて肉塊に(もう、戻らんのやろうね)

ごみをすぐに捨てられる。本当に便利です。でも、自らの足でごみ収集場まで歩いていきごみを毎日捨てに行くとしたら。極端な話で「なんだよこいつぅ~」とジョイマン高木の相方みたいなリアクションが喉元から出ようものなら、ごみ収集、歩く、一部始終を書きますので乞うご期待。じゃなかった、今書きますが。

分相応に考えたら、「ごみを出す」という行為にも悩みます。なんせ歩いたら一日が終わりますから。ごみ収集場の近くに公園がありまして、そこに設置された公衆トイレの便所の落書きに

「環境破壊や、これは環境破壊や」

と殴り書きで書かれていました(その下に「セ○○○してぇ~」って書かれていましたが)。

すいません余計でしたね。

つまり、僕はこれほどまでに身に余る便利さを享受していたのかと。んで、僕は指定有料ごみ袋を一番最小のサイズに致しまして、1回のごみ捨てにその中に入ったごみ袋だけとする、という条件付けというか訓練というか修行みたいなことをしています。

んでんで、一週間にごみをそんなに出せないと来たら、食べることにも注意を払わなければならない。なんせスーパーで買ったもの、スーパーは卸売りのお店ですから食材は運送されます。車が運ぶためにはそれ相応の衝撃が車内に伝う。だから梱包にはプラスチック等が使用される。

肉や野菜、もう最近は菓子類とは縁がありませんね、リンゴ食べれば、うん、美味しい(甘くてすっぱくてお菓子の代替わり)、んじゃなかった、食品には包装なされていて、それは必ずごみになる。だから、食べるものもごみを抱えることの”リスク”を踏まえて吟味しなければならない。

あー、ちょっと今17時。文章書きすぎましたね。

プッツンと急に終わりが来てしまいました。僕は19時の鐘の音には就寝する。寝ることは絶対。寝て瞳の中に逃げ込むこと。じゃないと、この世を生きるのにはしんどすぎる。

唐突のnoteラッシュ。読者の皆さん、ごめん。ちょっとばかし情緒不安定とかセンチメンタルとか入っていますが、こうして文章書いたら、スッキリ爽快、快調ブリブリ―ざえもん。お助け料、0億万円。ローンはなし、そもそも生活保護は1万5千円くらい以上の収入は国にて没収。ばっきゃやろう。

んじゃ、またの機会にお会いしましょう。

これだけ僕が情緒不安定で近所迷惑憚らずキーボードカタカタ鳴らすような分不相応な一時(ちょっと「分相応な生活」というフレーズに執着しとんな、うん、距離とろ)過ごすってことは、地域のみんな、めっちゃ無理しとんで。まあ、僕の妄想やけどな。

妄想は想像で、自由と表裏一体で、それは人が言語を持ち出してから生まれた的にも味方にもなる。引き寄せの法則じみて共通項見出して自らの物語を創作できて、それがただ生きるだけで生きていること自体も無意味だという退屈を潤すかけがえのないものだけど、その共通項の見出しが敵にもなるから。ドーパミン過剰で防衛機制、ほんまいうと、僕の過剰なまでのお辞儀や礼儀作法は反動形成いうーやつやな。でも、これらは僕にとっての武器や。きちんと節度保って、磨かせていただきます。

そのためには、きちんと体を休めなければならん。

ごめん、体ちゃん、言葉っていうか概念というのをあんた無口やから、いっぱいいーっぱい溜め込んでしまってそれが自家中毒起こして、こんな文章1万文字ララララッシュの決め込んで、すっきりしたけどゼーハーもので無理させてしまいました。ごめん、本当に、ごめん。

ごめん、僕、何言いよるんやろ。他人に触れるような場所でこんなに文章を書き腐って。ええんよ、頭の中に入っている腐ったものを表現としてピカピカに磨いて書き出せば、どこかの誰かがその中から何か見出してくれて、っていうか自分は早退した文章を書く書き手じゃないんだけど、今文章を一万文字にするためにテキトーな文章を書いた矢先に一万文字超えたのでお開きにします。

自分にできることだけやる。

人を越えた先にいる自分に対して迷惑をかけない。

自らの穢れ、怒り、あらゆる自分を取りこぼさない。そうしたあらゆる自分に畏敬の念を込めて、意味なき”歩く”を意味なき道に刻み続け、僕という道を作っていく。

自らの機嫌を取ることを第一優先。他人本位じゃなくまずは自ずから。

そうした心地よい体から響く音がたたずまいやら仕草を通して、取り繕わない自然さをまとい、その姿を通して他人に心地の良い音を、今度はその他人自身が自らの御身から発す。そのきっかけとなるならば。

言葉にならない一瞬の煌めき。社会的地位、容姿、年齢関係なく見せる、機嫌よい僕の合わせ鏡となった、目の前の他人のあどけない一瞬見せるすばらしい笑顔。

言葉なんかいらない。必要なのは、黙って、意味なき道に鉄のごとく重くゆっくりと、でも軽くすんなりどこか飛んでいくようなひらひらとした紙のごとく踏み込み、また歩き続ける、動き続ける。

僕はその一瞬に命を注ぎ込みたい。

たとえ、誰にも見向きもされなかろうが、僕はそれを一瞬に決すために、二度と後ろを振り返らない

一期一会。

苦しみ、悲しみ、喜びを今まで乗り越えた僕に恥じないために。今、ここを

生きる。

明日の僕にバトンタッチじゃあ。

んじゃ、またの👋


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