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エピソードとレポートの区別

アドラー心理学では『レポートではなくエピソードを扱う』ことで、具体的に問題を取り上げて検討します。今のところの私の理解している範囲で書いてみたいと思います。

私自身、カウンセリングの中でこのエピソードとレポートを分けるという意識を持ってから随分、起きている事実を整理したり、ネガティブな感情が生まれた前後の様子をより細かく見ていったりしやすくなったと感じます。

◎ エピソード
ある日、ある時、ある場所で起きた1回限りのこと。
例) 昨日の夕方、長男に「勉強しなさい」と行ったら無視された。

◎ レポート
「いつも◯◯する」というような、経験に基づく「意見」。
例) 長男に「勉強しなさい」と言っても、いつも無視される。

いつも同じようなことで悩むからこそ相談するわけで、相談者は必然的に「いつもこういうことがあって困ってるんです」という話をします。しかし実は細かく振り返ってみると、例えば無視されるのではなく「怒って文句を言ってくる」場合もあったかもしれないし、「黙って勉強する」という場合もあったかもしれません。無視するにしても、そのまま黙って目を見つめることもあれば、黙って立ち去ったかもしれない。

つまり、「いつも◯◯」という表現の中には細かな反応や行動が省略されて平均化されており、“事実”ではなく話し手の“意見”としてひとまとめにされてしまっています。この“意見”を扱ってしまうと、往々にして次のような流れになります。

「いつも勉強しなさいと言っても無視されるんです」
「ではしばらく放っておいたらどうでしょう?」
「はい、それもやってみたんですけど、いつまでもしないままなんです」

具体的事実ではない部分にアプローチしても、また次の意見が出てきてしまいます。反対にこのような助言で解決するのであれば、専門家のところまでやってこないかもしれません。

一方、エピソードで扱う場合は、例えば次のような流れになります。

「昨日の夕方、長男に勉強しなさいと言ったら無視されたんです」
「長男はその時何をしてました?」
「スマホでゲームをしていました」

「無視された」という前後の細かな動きを検討していく余地が生まれて、相談者とその相手の対人関係上の意図や目的を検討する材料を集めることができます。

「いつも」と言われるとセラピスト側も漠然とイメージを作らざるを得ず、ここには余計に偏見が入り込んでしまいます。もちろん、実際にはエピソードとレポートが入り混じった複雑な内容が語られることがほとんどですが、セラピスト側がこの区別を意識しておくことで、整理が俄然手際よくなるように思います。

このように、その時起きた事実をもとに次のステップに進むことができる点は、アドラー心理学的アプローチに魅力を感じるところです。

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