回想:適応指導教室
一言に適応指導教室と言っても、その内容や環境はおそらく地域ごと、施設ごとに異なると思うが、私が携わったのは廃校の校舎を再利用したところだった。
そこは地域の学校にうまく通えなくなった子どもが、コミュニケーションや学習の支援を受けながら学校生活への復帰を目指す場所で、適応指導教室に来室することで出席にもカウントされる。
適応指導教室での仕事
勤務していたのは大学院生の頃から院修了後心理士資格を取るまでの間だった。資格を持たない私の主な担当は、先輩心理士の管理のもと、子どもたちと一緒に遊びや勉強をして一緒に過ごすことだった。
子どもの数は数名と少ないが、時にはきっちり黒板を使って国語の授業をしたり、運動場で体育の授業をすることもあったし、カードゲーム等で一緒に遊ぶこともあった。場所は廃校といえどもほぼ元の形のまま利用されていて、大きな三角定規や大量のビーカーが残されており、過ぎた時代の名残からなんとなくもの寂しい雰囲気が感じられたのを今でも覚えている。
中でも記憶に鮮明なのは、公用車で子どもを家まで迎えに行ったことである。もちろん徒歩や自転車で通える子どもがほとんどだが、なかなか家から出にくかったり、施設から少し遠方に住む子もいるため、適宜送迎していた。
家まで行って、
「(教室に行くかどうか)今日どうする?」と尋ねると、
「ちょっと待って」とドアから寝起きの顔を見せてから支度をする場合もあれば、インターホンを押しても反応がない子どもに手紙を残すことが何度もあった。
(そういう時は手紙を残すということを知ったのもこの時だった)
それぞれの子どもの家庭の様子が玄関からだけでも感じ取れたのは、貴重な体験だったように思う。玄関(何が置いてあるか、整理整頓の度合い等)には家庭の内情が色濃く反映されることを学んだ。
アドラー心理学との関連
通っていた子どもが急に学校に復帰することもあれば、そのまま卒業することもあった。週に1回程度しか関わらない場合、特に子どもの様子は目まぐるしく状況が変化するため、なかなか流れを把握できない。そのような断続的な関わりの中でも、適応指導教室という止まり木のような存在は、子どもの所属という側面からも重要な役割があると感じる。
関わっている中での表情や行動に、わずかな過敏さが感じられることはあっても、不登校との直接的なつながりが見えるわけではない。今思い返してみれば、それでもどこかで学校という所属先への揺らぎの中で、不登校という選択肢を主体的に選び、何らかの目的を持って行動しているという仮説を立てられれば、関わりの工夫がもう少しできたかもしれない。
家庭環境、地域性、その学校の文化等、様々な影響がありつつも、アドラー心理学は対人関係の視点から考える。そして、
・相手役を想定したひとつひとつの行動の意味
・繰り返し現れるライフスタイル
・その背景にある良い意図の存在
・その人全体が一貫して持っている目的に思考を巡らせ、自分にできることを考えること
こういったそれぞれが当時持ち得なかった発想だ。
子どもが学校という場に所属できない時、突如他者とのつながりが希薄化していく。そのつながりを一時的につなぎとめる場所のひとつが、適応指導教室だと思う。
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