共同体感覚とおおやけ心
公は「おおやけ」と読み、元々「大宅」すなわち”大きな家”を指す。
どうやら「大きな宮殿」とか、そういう支配階級の人々が住む場所が語源のようだ。
アドラー心理学の野田先生は、共同体感覚のことを「おおやけ心」と訳していたことがあった。
パブリック、公共というと「みんなのもの」という感じがあり、逆説的に「私のもの」と明確に区別しているように思える。
しかし日本人の感性としては、「おおやけ」=「大宅」すなわち「私たち」という仲間意識の方に重点があるのではないかと感じる。だからこそ野田先生も「公心」と書かず「おおやけ心」とし、これが共同体感覚と同義であると考えたのではないだろうか。
プライバシー保護に過敏になっていく一方で、SNSによる個人情報の垂れ流しという二極化が進む中、情報の操作から一歩離れて身体に目を向けた時、実感を伴う貢献感はどのように生まれてくるのだろうか。
「私たち」というおおやけの感覚、共同体感覚が発揮される時には常に行動が伴っているはずであり、そこには多かれ少なかれ身体が必ず関わっている。眼の前の人と接する際に、共同体感覚を実感として経験するにはどうふるまえばよいかを考えたい。落ちているゴミを拾って捨てることも対人関係につながっているし、そこには「私たち」の感覚があるはずだ。
身体的実感を追求していくことも、共同体感覚を育成することにつながる。
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