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2024.4.9:ばかものよ

色々なことを書きたくて残したくて、朝からファミレスに篭る。ドリンクバーのみで粘るという高校生みたいなことをしてしまった。

高円寺良い町なのだと思うけど、春の嵐でまともに歩くことすらままならず断念。行くと決めていた蟹ブックスさんとエリックサウスのみ訪れ足早に退散する。ビリヤニ、水の如く消えてしまった。


東京はやっぱりすごい。さまざまなカルチャーの最先端があって、その分野に精通した人たちが当たり前かの如くたくさんいる。

ここ数日、さまざまなカルチャーに触れた。そしてすごく落ち込んだ。自分の感受性の低さや、無学さが故に作品の魅力が分からない。
どのお店も作品も、作り手の意図がある。
ものを見る上で、微妙だな、と思うものに出会う。でもそれは作品の問題ではなく、自分の知識不足が故に魅力を感じ取れていないだけなのではないか?
選書やレイアウト、映像や美術、それら意図しているものを察するためには、受け取る側に知識や経験といった器がなければ感じ取れない。
感じ取れないものは存在しない、だから、魅力はないのと同義になってしまう。あるものを自分の問題でないというのは、すごく失礼なことをしていると思う。
私は作品から、作り手の人生や価値観を理解したい。その上で自分の中での良し悪し(悪しというか合う合わないが近い)を考えたい。私はそれが、作品に向き合う誠意だし、愛だと思う。
もっとたくさんのものに触れて聞いて、自分の頭と言葉で表現しよう。

日記は面白い。その時の環境に影響されて文体や、フォーカスする内容が変わっている。
思考を書き残す時もあれば、出来事ペースで綴られる。
一般的には、私の日記はどちらかというとエッセイに分類されるのだと思う。ただ、私の中の日記の定義は、「記録するもの」だから、日記としている。生活の切り抜きなら綴られるものは、思考でも感情でもなんでもいい。だからこの揺らぎも記録の一部。
読み返すと、恋と季節に左右されることが多い。こういうのが分かると、唐突にしんどいモードになった時の脱出の手引きになるから助かる。安定した恋、暖かく晴れた日であること。これさえあればなんとかなる。


明日も先輩に会う。
たぶん、先はないから存分に浮かれようと思う。

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