2024.5.20:もう会えないのが少しだけ寂しい

好きだったバンドの訃報を聞く。
SNSでバンド名を検索すると、追悼のメッセージが溢れかえっていた。

私は、死を悲しいと思えたことが一度もない。
友達、先輩、恋人、ペット、芸能人、自分の好きで大切にしている人たちであっても、それは変わらない。


大好きだった曾祖母が幼稚園の頃に亡くなった。私のことをかわいがり、たくさんのことを教えてくれて大切にしてくれた。棺に入れらた曾祖母の顔を見たときに、もうお話できないのは残念だな、と思ったのを覚えている。

家族が敵で頼るということが出来ず、いくつかの感情を殺していなければ自分を保てなかった環境で生きていた18年間。血がつながっていようが他人だ、と思うことで傷つくのを回避した。家を出て6年以上経ち、あの頃の自分よりは、ずっとまっすぐに生きられている。でも、存在したものは消えることはない。
素のままで人を好きになれても、躊躇なく愛を注げても、自己と他者という一線は超えられない。
絶対的に私のそばに居続けてくれるなんてないものに諦念を抱かないと私は自分の形を保てない。他人のことを捨て身で悲しめる人は、やさしいし強い人だと思う。他者の死を他人事のようとらえてしまうのは私の弱さの表れだ。

死は、平等に皆に訪れる。遅かれ早かれ絶対的に訪れる。
現状を受け入れる、そのうえで生き抜くという自分の精神を悲観しているわけでもないし、嫌悪しているわけでもない。ただ、少しだけかわいそうだな、と思う。自己防衛など必要ない場所で育っていたら、欠落しなかった感情が多分、たくさん、ある。

弱さは実は強さだし、強さは脆さで生まれる。単純な感情なんて、この世に一つもない。

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