何が残るの?


「え?それやってて何が残るの?」

僕が小さい時、公園でポケモンをしていた時に好きな子に言われた一言が心のどこかにひっかかっている。

今思うとその子は大人びていたんだなとわかる。目の前だけじゃなくて、遠い先を見ていたんだなあとわかる。そんな大人びていたところにひかれていたのかもしれない。単純な僕はその日からしばらくポケモンをやめた。


「このポケモンのぬいぐるみ全部売ったら何円になるんだろ」

僕はポケモンのぬいぐるみを集めるのが趣味で、ことあるごとにポケモンセンターに行ってはぬいぐるみを集めた。教育実習最中にもポケモンセンターに行った。横浜旅行でも買った。しかし、この言葉を友達に言われると、すごく寂しくなる。つまりは「これを買って何が残るの?」ということだろう。

僕はもう大人なので「確かにねえ」と返せるが、その愛想笑いの心のうちはすごく寂しい気分になる。

「何も残りはしない」から。


社会に出ると、行動には理由がいる。試験に受かりたいから勉強するし、お金が欲しいからバイトをする。おなかがすいたから食べるし、眠いから寝る。よりかわいくなりたいから化粧道具を買うし、考え方を広げたいから本を読む。そうやって自分にプラスになっていくことを自分の一部にしていく。

そうやって自分で考え、生産性があることを優先的にこなしていく人が早く成功すると自己啓発本にはたくさん書かれていた。効率的なんて言葉が、自己を啓発させるために本の中に”効率的”にちりばめられている。

そんな人が尊敬されていくのは当然なこと。だから生産性があることを求める人や、行動に理由を求める人にとって、僕がゲームに熱中することもぬいぐるみを集めることも、このnoteを書くことだって、「何してるんだろう?」と思われることは当然だと思う。

僕もそんな人をすごいなあと思うが尊敬や崇拝はしていない。あんな風にはなれないな。と自分で割り切っているから。

僕は生産性を求めて生きていくことに疲れてしまうことが多い。なんで自分はこんなにダメなんだと考えることも多い。自尊心が高いからこそ、自分に足りてないところばかり見てしまう。疲れやすい人の中にはスパッとやめて田舎暮らしを始める人もいるがきっと僕はそんな勇気もない。その中で、生産性を求めるがあまり、抜け落ちてしまった自分の一部を、ゲームやぬいぐるみで埋めていかないと。僕はやっていけないのです。きっとこれからもそうです。

だからゲームをやって忘れたり、ぬいぐるみを買って満足したりという小さな喜びまで、「生産性がないもの」とくくられてしまうのがとても寂しいです。

ある意味抜け落ちた自分を”効率的”に埋めていくのです。

だから何も残りません。埋めているだけだから。


そういった心を埋める必要がない人にとって価値がないものに見えたぬいぐるみについて「これ全部売ったら…」と聞かれた時には、きっとこの人は人のことまで気が回らない人だという皮肉も込めて、「確かにねえ」と答えます。


(僕がゲームをしたり、ぬいぐるみを集める理由です。他人は知りません。)

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