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【ぶんぶくちゃいな・期間限定無料全文公開】Netflix版『三体』の文革シーンはリアルか、陰謀か?――わたしの文革体験(後編)

前回に続き、ポッドキャスト「不明白播客」から高さんの文化大革命(文革)を巡る当事者の回想録後編をお届けする。まだの方は前編からどうぞ。

「高さん」は今回の内容でも明らかにされるが、今年78歳の女性だが、身の危険を考慮して匿名にされている。前回の内容では、ちょうど清華大学に入学した年に文化大革命が発動されて駆り出され、結局大学生活を実際に学ぶ機会を与えられないまま、終わることを余儀なくされた世代であることが語られた。

そして実際に文革を暴れまくった「一兵」として彼女は何を目にしたのか。今回はそれらの出来事が具体的に語られる。

Netflixが製作したドラマ『三体』が世界的に大ヒットし、正式に配信されていない中国でも多くの人たちが目にした結果、沸き起こった文化大革命に対する議論を高さんは「良いこと」と断言する。そして、実際に中国国内では南京大虐殺は知っていても、文化大革命をまったく知らない若者が存在することに危機感を覚えているとも。

しかし、そんな「忘れ去られた過去」を、贖罪の思いから掘り起こそうとし続けている高さんとかつての同窓生たちの活動は、今また文革を思わせる障害に直面し続けているという。

なお、文中、[]で訳者である筆者による補足及び注釈を示した。


◎ポッドキャスト「不明白播客 Conversations with Yuan Li」:Netflix版『三体』の文革シーンはリアルか、陰謀か?――わたしの文革体験(後編)

●文革を振り返る意義とは

袁莉(以下、袁):文革を振り返り、記録することは必要、あるいは意義があることだとお考えですか?

高:絶対に必要ですし、大変に意義のあることです。

以前、あるとても親しい友人に文革の話を持ち出したところ、彼は「その話はもういいじゃないか」と言いました。そんな人もいます。「人を不快にさせることは口にしないほうがいい、それが健康維持にも役立つ」とか言われますね。

でも、その一方で文革について何も知らない人もいる。大通りで一人の女の子に「文化大革命を知っていますか?」と尋ねたら、彼女はぼんやりとした表情で「南京大虐殺のことですか?」と返してきたんですよ。

袁:本当ですか? 中国当局は、確かに南京大虐殺については絶えず強調していますが、文化大革命には触れませんね。

高:海南省で出会った若者と話をしたこともあります、彼らは薄熙来[*20]を称賛していました。私たちが薄がやろうとしていることは文革の再現だと言うと、彼らはすぐに私たちに、「あなたのご家族が文革で苦められたの?」と尋ねてきました。そんなふうに、多くの人たちが文革なんか大したことではなかったと考えているんです。

[*20]薄煕来:1949年生まれ、中国開国党幹部の薄一波の次男で、大連市、遼寧省で地方トップを務めた後、2004年に中央政府商務部長に。「太子党」と呼ばれ、習近平のライバルとみなされた。2007年に直轄市の重慶市党委員会書記へと転任後、重慶市で毛沢東思想を持ち出し、革命歌を歌わせたりするなどの動きが強化される。2012年に遼寧省時代からの部下がアメリカ領事館に政治庇護を求めて駆け込んだことがきっかけで、薄とその夫人による外国人ビジネスマン殺害などの事件が表面化。同年失脚、2013年に無期懲役判決を受けて服役中。

だから、文革の真実を暴露するために情報を収集し、歴史を研究することは非常に重要なことなんです。でも今はそうした活動自体に圧力がかかり、実質的に禁止されている。その試みは成功していると言えますが、よくよく考えると悲しいことです。だって、一つの民族が10年もの間、非常に大きな苦難を経験したというのに、その後あっという間にそれが忘れ去られ、そしてまた同じことを繰り返そうとしているわけですから。

『三体』の最初の数分間を観て、いいことだとわたしは思いましたよ。だって、そのお陰で人々の思考が喚起されたのですから。

袁:わたし自身は文革についての多くの作品やドキュメンタリーを読んだり観たりはしてきましたが、[Netflix作品のように]批判大会で人々がまさに痛めつけられている姿を描いた映像作品を観たことはありませんでした。確かにそれはガツン、ガツンと響く、非常に残酷なシーンでしたが、観ていて当時がどれほど狂信的だったのかを理解するのに役立ちましたね。

高:そうですよね。今写真で振り返ると、当時の人たちは後ろから掴まれて跪かされていますよね。あれは「飛行機に乗る」(坐飛機)と呼ばれる姿勢で、後ろに立った人たちがその人物の腕を後ろにへし折るように持ち上げて、その身体を最も苦しい状態になるよう折り曲げているのです。そして首から下げられた標語の板はわざわざとても重くなるように作られていました。

加えて批判大会ではたびたび、それにレンガや重い物が吊り下げられ、鉄線が首の肉に深く喰い込むようにされていたんです。まさに拷問で、それは決して珍しいことではなかった。そんな狂気の中では、そうしたことが非常に多く行われていました。

●多くの人たちが殺された

袁:当時の人たちはなぜ、生命や倫理を軽視できたのか。それについて教えていただけますか?

高:それについては、私もいろいろと考えました。それはカルトのようなもので、なにかを至上のものと考えていたんだと思います。つまり、毛沢東のことです。当時の私自身がそう考えていたんですよ。今、それを口にするときっとびっくりするでしょうが、当時の私は毛沢東のために死ねと言われれたら、すぐに行動したはずです。そんな状態だったんです。苦しみを恐れず、死を恐れずに、と言われてね。

「毛主席は私たちの心の赤い太陽だ」という考えに、人々は夢中になっていた。私たちは今思うに、物事の価値観や判断において自分は至上最高のそれに従うべきなのだと考えていたんです。

毛主席が手を振れば我々は前進し、「革命は無罪、造反[*前編19]は理にかなっている」と言えば、「資本家すべてを打倒せよ」と叫んだ。「やつらは資本主義派だ、資本主義派が今も生き続けている」と叫んだりもしました。「党内の裏切り者を引きずり出せ、やつらは私たちのすぐ近くで眠っている」と言われると、すぐに行動に移した。

人命や、以前の人たちが大切にしていた情義や倫理、知恵や信念などはそうやってすっかり軽んじられました。

そういえば思い出したことがあります。文革が始まった時、私たちの学校ではいくつかの学年に分かれて農村で社会主義教育活動をしていたんですが、そこに学校に戻って文革を展開するよう連絡が入った。そうやって学校に戻る車の中で、[学生内部の]党員幹部に対する攻撃が始まったんだそうです。それまでみんなともに農村で教育活動を行い、仕事も良好で兄妹のような関係だったというのに。

私の夫はそのことが理解できなかったと言っていました。一体どうしたら一瞬で相手を認めなくなってしまうんだ、と。

つまり、その後に起こった暴力についても、それと同じ道理なんですよ、あっという間に相手を認めなくなった。わたしが自分の母親を大字報で吊し上げたように。長年の親子の感情、母親と娘の感情はどこに行ってしまったのか?

袁:同級生が殺人を犯したともおっしゃっていましたよね。

高:そうそう、人命についてのもう一つのエピソードです。

大学生の頃に別の学校での交流会に出かけ、市外から来た大学生と知り合いました。その時に話してくれたんですが、彼が半農村半都市の小さな町を歩いていたところ、後ろから人がついてきてるのに気がついた。歩き続けてもずっとついてくる。ますますおかしいと思い、恐怖を感じたので、その人を殺したと言ったんです。

それを聞いて私は驚きました。「どうしてそんなことができるの?」と尋ねたら、彼は「殺さなければ、ぼくがやつに殺されていた」と軽く言ったんです。

文革の間に、私はその話を他の人にしたことはありませんでした。彼は人を殺したことについての譴責は受けないまま生きています。一方で殺された人は、誰かの息子や父親、夫だったはずなのに、その命は静かに消えてしまった。

文革の暴力的なムードの中で、今の私たちが想像できないようなことが起こっていたんです。武装闘争[*21]なんて日常茶飯事で、ものすごい数の紅衛兵や労働者がそれによって殺害されました。だからこそ、これらの出来事を記録し、風化させてはいけないのです!

[*21]武装闘争:文字通りの武力闘争だが、中国語では文化大革命時に保守派(既存路線派)と造反派(反・既存路線派=毛沢東支持者)の間で起きた抗争を意味する。さらに紅衛兵と呼ばれる高学歴・高背景のグループ内での派閥争いをも意味する。文字通り血で血を洗う激しい抗争で、市街戦のようだったとする記録もある。

武装闘争が始まってから、ある日見かけた品行方正で細身な若い男の子が、その翌日に「長槍で突かれて死んだ」と聞かされたこともありました。その後しばらく私は本当に辛かったです。でも、大規模な武装闘争では、こうやってあまりにもたくさんの人が死んだんです。清華大学でも多くの人が亡くなりましたよ。

●私たちが闘争を助長した

袁:武装闘争が始まったのは1967年頃ですね。

高:はい、その頃は四川の戦争[*22]で使用されていた武器が武装闘争の場で使用されていました。私が覚えているのは「奇門砲」という武器、そしてもう1つ、爆発すると多数の殺傷力の強い何かがたくさん飛び出してくるミサイルなど、そういったものがすべて文革の武装闘争で使用されました。

[*22]四川の戦争:1967年に四川省瀘州で起きた武力闘争で、4年に渡る拡大と激しい闘争の末、2000人が死亡したとされる。事態の悪化、拡大を怖れた中央政府が人民解放軍を投入して鎮圧した。

それはなぜかというと、兵器工場が巻き込まれたからです。2つの派閥間の戦いというのは、今日支持を受けた派閥が、上官が上に立って演説をすると、もう一つに戦いを仕掛ける。でも、別の日にはもう一つの派閥が巻き返してくる。今日解放軍の支持を受ければラッキーだが、明日になると解放軍の支持もどんなふうになるかはわからないのに……階級闘争は素晴らしいなどという人たちは、それが誰も逃れることができない、殺戮場であることを知らないのです。

袁:あなたは武装闘争に参加したことがありますか?

高:いいえ。北京の学生はみんな紅衛兵だったと思われていますが、私は出自[*前編11]のせいで正規の紅衛兵にはなれませんでした。当時はあちこちで武装闘争が起きていて、夜中の街で私たちを捕まえようとしたグループに狙われたりもしました。そこから逃げるときに靴は脱げ、服が半分に引き裂かれたこともありました。

地元の紅衛兵の一人がナイフで肩甲骨を刺され、服が血だらけになったこともあります。女の子でした。当時わたしは解放軍の保守的なグループの支持者で、解放軍の軍営に避難したんです。その後に解放軍が私たちを四川省から連れ出したのは、当時はとにかくそういう状態にあったからです。

袁:清華大学に在学していたあなたが、なぜ四川にいたのですか?

高:「大串連」[*23]ですよ。紅衛兵が全国で[文革を]煽るためでした。私のように地味で迫力のない人間も、大会に参加して群衆を扇動するために演説を行ったりしていたのです。

[*23]大串連:文革中に毛沢東が発令した動員手段の一つで、大学や中学(中学生から高校生)の紅衛兵をさまざまな学校の学生たちと交流させ、文革への動員を呼びかけていくというもの。紅衛兵やその準構成員たちが全国を遊説して歩き、その間の宿泊や交通にかかる費用はすべて強制的に無料とされた。

今振り返ってみると、それらすべてが2つの派閥の対立を煽り、闘争を助長した私たちが犯した罪や過ちだと言えますね。当時、市井ではまだ多くの人たちが文革って一体何なんだ?と考えていたところに、私たちは自分の理解から彼らに、なぜ文革なのか、なぜ反乱を起こす必要があるかを説いてまわっていたのですから。

資本主義者だっていい人じゃないか、なのになぜ立ち上がって資本主義派と戦わなければならないのか?という問いに、資本主義派は毛主席の革命路線に反対しており、その罪は許されないのだから、私たちは彼らを打倒するために立ち上がらなければ、と訴えていました。その結果、私たちもまた大変にひどいことをしてしまいました。

●文革を掘り起こして記録し、記憶する人たち

袁:あなたはここ数年、北京師範大学附属女子中学や清華大学の同窓生たちと、文化大革命について反省や記録の取り組みをされていますね。私たちとその取り組みについて共有していただけますか?

高:退職してから附属女子中学校での活動に積極的に参加するようになりました。

同窓生たちの行動を私はとても誇りに思っています。彼女たちは私たちの世代には、目にした大混乱を記録し、人々に再び文化大革命を引き起こしてはいけないと伝える責任があると考えて、努力を続けてきたからです。文革がどれほどむちゃくちゃな出来事だったかを伝えるために、多くの本を出版し、さまざまな活動を行ってきます。彼女たちはすでに80歳を超えているのに、活動を続けています。

清華大学のグループでは、私は[文革が始まったときに1年生だったので]一番歳下です。彼らは私より年上ですが、本当に尊敬しています。彼らは今でも、清華大学の文革で異状死したすべての人の状況を調査しています。まだ名前もわかっていない人もいて、その人を知っている人はいないか、どういった状況だったのか……一つの生命が、まだ若かった命が、そんなふうに消えてしまったのですから。

袁:彼らは文革中にどれだけの学生が清華大学で亡くなったかのデータも持っているんですか?

高:ありますよ。わたしの手元にはありませんが、彼らのグループの中には現時点で集めた人数があります。さまざまな状況で亡くなった人々の情報もまとめられ、『倒下的英才」[倒れた才能」、『良心的拷問』[良心の拷問]、『歴史不能遺忘』[歴史を忘れてはいけない]などといった書名で出版されています。彼らは責任感を持って、それを忘れてはいけないと出版にこぎつけたんです。でも今はそういうことがまったくできなくなってしまいました。

文革50周年のとき、私たちは文革についてのシンポジウムを開こうとしました。全国から100人以上、200人以上が集まりかけたのですが、会場を探して手はずをつけたら上層部から開催を中止するよう求める通知が届くということが繰り返されたんです。最終的に会場を見つることができませんでした。

ならば、みなで集まって食事の会にしようという話になり、レストランを見つけて契約を結び、前金を支払った後、レストランから連絡があったんです。「ボイラーやガスコンロが壊れたので、食事の提供ができなくなりました」とね。

袁:2016年のことですね。

高:そう、50周年のときです。結局、上からの妨害を受けて、最終的には個人的な知り合いにだけ声を掛け合って少数の人々にだけ会場を通知し、非常に小さな会が開かれました。

その会で楊継縄[*24]がある文章を読み上げました。彼は現代中国が歩んだ道を黄河の大きな曲がり角に例えて語りました。当時は本当に、いつになったらそれが真っ直ぐになり、文明に向かって、海に向かって進むのかしらと思っていました。

[*24]楊継縄:1940年生まれのジャーナリスト。新華社記者などを経て、中国自由派雑誌「炎黄春秋」の副社長となる。天安門事件後に軟禁状態にあった趙紫陽のインタビューを、趙の死の直前に発表して注目を集める。2008年には1958年から1962年にかけての「大躍進」時代に起こった大飢饉をまとめた『墓碑』を香港で出版。その後も中国の時事や政治についての評論集を発表し、海外では高く評価されている。北京在住。

それは本当に小さく、3つのテーブル分だけ人が集まった場でした。その後、母校を訪れて、皆で礼堂で写真を撮り、おしゃべりして過ごしました。それが文化大革命から50年目の、流産させられたイベントでした。

袁:最初にあなたは本の出版について触れておられましたが、出版したのはいつ? 2000年代ですか、それとも1990年代?

高:いいえ、それがずっと出版できずにいます。しかし、資料だけは香港や台湾、アメリカに持ち出して、保存し続けてきました。ご存知のように、今や検閲はますます厳しくなっていますし、文革の研究はほぼ基本的に地下活動となり、継承者もおらず、今の学生たちでこの研究トピックを選ぶ人はいません。たとえ、歴史を学んでいても、です。

実際、このトピックは専門分野として研究されるべき価値のあるものですがが、今は上層の態度のために、論文を発表しても公開が禁止されますし、若者でそれを選ぶ人がいるはずがありません。そのため、そうした活動を行っている人はいません。私は1人それを続けている人を知っていますが、彼は非常に控えめな態度で、人目につくことを完全に避けている状態です。

袁:その人はどんな仕事をしている人なんですか? 情報収集とその他には?

高:彼は自分の家にあるお金をすべて投じて、原稿を集めようと当時を知る人たちに執筆を依頼しています。たとえば文革中における全国各地の状況など、まだまだ多くの資料が足りていないんです。ほっておくとあっという間にこの世の中から消えてなくなってしまいます。そんな原稿集めをしている人たちもみなボランティアですが、それでも執筆者にはそれなりの報酬を払う必要があると考えているんです。

少しでも目立ってはいけないと、本当に慎重にことを進めています。そのことを考えるととても悲しい気持ちになります。作業を続けるために視力に影響が出ている人もいます。作業中にはほぼコンピュータに目を貼り付けるようにしている人もいますし、病気になったり亡くなったりする人もいます。そんな情報が届くたびに、もしことを詳しく知る人が亡くなった場合、その人が書ける原稿自体が失われてしまうんだなと感じています。

●文革で多くの可能性が失われた

袁:実際に、胡杰[*前編3]が北師大女附中の卞仲耘・副校長の死[*前編5]を記録すべく、2007年に撮ったドキュメンタリー作品『我雖死去』(私は死んでしまった)は中国で公開されたことがなく、民間の文革博物館でのみ上映されましたが、その後民間が起こした文革博物館も次々にすべて閉鎖されてしまいましたよね。

また、『三体』が放送され、文革や武装闘争のシーンの登場が話題になったあと、インターネット上に中国物理学の基礎を築いた一人、葉企孫氏についての記事[*25]が掲載されました。彼は1920年代にハーバード大学で物理学の博士号を取得し、中国に戻ってきた人物で、中国で最も有名な物理学者たちはみな彼に師事した学生でした。

[*25]葉企孫氏についての記事:葉企孫は1898年生まれの中国の物理学者。1918年に清華大学の前身、製菓学校を卒業後、米国に留学、ハーバード大学で博士課程を終えて帰国。1925年に清華学校に大学部が設立された際に物理学部副教授に就任した。1977年没。1987年に甥の努力により名誉回復。彼を『三体』で殺される物理学者のモデルとして紹介する記事は削除されているが、転載先はこちら:https://x.gd/iSnrl

高:そう、その彼が物理学部を創設したんですよね。

袁:文革時代、彼は自分の学生をかばって発言し、反革命分子とみなされて北大の紅衛兵に捕まり、拘留され、暴力を受けて強制労働隊に送られました。彼は一時期精神障害を起こし、北京の中関村大街を歩き回ってお金や食べ物をねだるほどだったそうです。わたしはそれを読んで、悲惨で非人道すぎると感じました。そんな優秀で善良な教師がこれほどまでに追い詰められるとは。

あの記事は多くの人によってシェアされた結果、削除されました。[当局は]それを思い出させたくなかったんですよね。でも、『三体』で殺された教授も葉という姓で、物理学者ですね。私は[『三体』作者の]劉慈欣が葉企孫さんをモデルにして書いたのではないかと感じました。

高:私の目には、彼のモデルは多くの人の集合体で、多くの人たちの代表的存在だと思います。『三体』はそのところを大変うまく凝縮してありますね。今や多くの人たちが口を開けば「愛国」と叫びますが、たとえば[文革では]葉企孫のような人々、そしてその学生たちも亡くなっているんです。その事自体がとても悲しいことです。

そうした人たちが中国の科学技術の発展にどれほど大きな貢献をしてきたことか。もし、「愛国」を口にするなら、本当に祖国を愛しているのなら、それこそそんな人々のことを大切にしなければならないはずです。本末転倒ですよ。

私は今でも文革時代の出版物を整理しています。そんな出版物は憎悪、暴力、荒々しい、理不尽な言葉が満ちています。例えば、最近まとめたものに梁思成[*26]を酷評したものがあり、徹底的に彼を叩く内容で、読んで心が痛みました。当時、あまりにも多くの素晴らしい人たちを潰してしまった。

[*26]梁思成:1901年生まれ。著名な建築家。

袁:梁思成を知らない人は調べてみてください。彼は中国建築学の基礎を築いた一人です。

高:それが今になってやっとわかった。あの時はすべてが根底からひっくり返され、何もかもが破壊され、永遠にそれが息を吹き返すできないようにされてしまったんです。

私は今、毎日そんな言葉と向き合っています。時々、非常な不快感を感じますが、それでも私はそうすることに意味があると考えているんです。人々に、かつて若く、本来なら最もはつらつとしていたはずの大学生たちがそんなふうになってしまっていたということを知ってもらいたいのです。

●わずか8カ月で終息した大学生活

袁:今や中国のソーシャルメディアや、ツイッターでかわされる簡体字による言論も暴力に満ちており、自分以外の他人を人間として扱わないような表現があります。そんな言葉に文革の余風を感じませんか?

高:もちろん。つい、先日の復活祭[*27]に、ネット上である時事評論家の言葉を目にしました。非常に良い言葉だと思いました。それは、「私たちはキリスト教徒ではないけれども、かつてイエスは人類の心に種を蒔いた。その種はとても温かい、愛と呼ばれるものだ。ジャングルから抜け出す前の人たちにはそんな感情はなかった。でも、その種が埋め込まれたことで、彼らはその温かい種の下で文明を創造したのだ」と。

[*27]復活祭:キリスト教における最も重要な祭日で、死んだイエス・キリストがその3日後に復活したとされることを祝う日。イースターとも呼ばれる。「春分の日の後の最初の満月の次の日曜日」とされているため、毎年の日付が異なる。2024年は3月31日だった。

それを読んで、わたしは逆のことを考えました。わたしたちが当時、毛沢東の指導の下で心に植え付けられたのは、憎しみと闘争の種だった、と。日々「革命とは宴会ではなく、絵画や刺繍、文章を書くことでもない。革命とは一つの階級がもう一つの階級を暴力的な行動で倒すことだ」と唱えて、自分たちのすべての悪事を正当化したのです。考えてみてください、それは人々をどこに導くでしょう?

今もまたどこかで、階級闘争を徹底させよう、文化大革命をやり遂げようと呼びかける向きがあると聞きます。「階級闘争を忘れてはならない」などと言っているそうです。私からすれば、彼らにあんたたちはなにを理解しているつもりなの?と問い詰めたい。

その波がいつか自分にも及んだとき、初めてその意味がわかるのでしょう。だいたい、私たちはすでに十年来それをやってきていて、その御蔭で国がどれだけ後退してしまったか!

本来なら、私たちの国は今このような状態ではなかったはずなのです。今は少なくとも10年間、人々は受けるべき適切な教育を受けることができないままで生きてきたのです。そんな彼らは、わたしも含めてその心に問題を抱えているんです。私は大学に8か月しか通えなかった。本来なら5年間学べたはずなんです。

今78歳になった私は、文革の教訓を決して忘れてはいけないと強く思います。二度と、絶対に文革を起こしてはいけません。またそれが起きたら、中国は深く深く、這いずり出ることができない深い穴に陥ってしまうことでしょう。

●今も続く文革的政治手段

袁:文革時代が歴史の一部としてきちんと整理されたまとめや振り返りがなされていないことが、あなた自身を含め、文革を経験した世代の個人的にも、または社会的にもその傷痕が癒されていないということなんでしょうか。そんな人たちやあなたが経験した暴力と傷痕は、その後の中国社会や中国人にどのような影響を与えたと思われますか? 今の中国を率いている人々は、その時代に育った世代です。彼らの家庭も文革中に大きな打撃を受けましたが、彼らが今行っていることの多くは、毛沢東のやり方を復活させようとしていますし。そのことについてどう思いますか?

高:わたしはうまくいえないのですが、理論的にどうこうというよりも、現在私は派閥的な分裂が非常に激しいなと感じています。その点は文革とそっくりです。一部の人々は自分はこうだと考え、他の人たちを売国奴だと罵る。妥協や包容は一切許されない。これは文革と非常に関連していると思います。実際、私たちは長らく文革の苦しみを味わいつ付けている。なぜ文革がもう一度起こってはならないというのかというと、もしもう一度それが起きたら、私たちはまったく希望を失ってしまいます。私たちは今も、かつての文革に苦しめられているのですから。

袁:どういう意味ですか?

高:まずはあなたも言ったように、「中国をどの方向に向かわせたか」ですよ。現在の権力者たちは、毛沢東の教育を受けて育った人たちで、階級闘争を利用して権力を固め、自分たちの目的を達成しようとしています。そして、人々をまた扇動して互いに戦わせ、自分が得たいものを手に入れようとしている。それまさに文革の手法です。社会の現象も文革で起きたそれを繰り返しており、ますます似てきました。あなたが書いた記事をほじくり返し、そこで使った言葉が党に対する反対を意味しているなどと言ったり、告発や暴露、こっそり盗聴したり、インターネットでの密告など……。

袁:作家の方方さん[*28]が書いた日記が、「海外勢力にナイフを渡すようなものだ」などと言われ、ネット上で批判され、文革のような批判大会のさまを示しましたよね。まさに非常に恐ろしいことになりました。あなたのように文革を経験した方々や文革に対して多くの反省をしてきた方々は、こうしたネットでの糾弾にどんな思いを抱いておられるのでしょうか? 一般人は何をすべきだと思われますか? あなたは息子さんやお孫さんに、どんなふうにおっしゃっておられるのでしょうか?

[*28]作家の方方:1955年生まれの女性作家。湖北省作家協会主席でもある。2020年に武漢市で感染が拡大した新型コロナウイルスによって、武漢市全体が封鎖され、外出が禁止されたことを受けて、ネット上で日記を公開、後に『方方日記』として出版。これが海外で翻訳出版されたことから、中国国内で「家の恥を国の外にさらして儲ける作家」などと激しい批判を受けた。『方方日記』は『武漢日記:封鎖下60日の魂の記録』と題して邦訳化されている。

高:我が家ではずっと正直な話し合いを重視してきて、中国の歴史上の大事な出来事については家庭内でも議論してきたおかげで、今でも子供たちとは円滑に意見を交わすことができています。

ただ、あなたの質問への答えは総体的にはわたしは悲観的ですとお答えするしかないですね。ただし、それでも自分ができることはすべてやらなければ、力を尽くさなければと感じています。

私の両親は浙江大学出身で、その世代には若いときから真面目で真剣な人たちが多くいました。彼らのうち一人が、私にこう言ったのです。「あなたは公民学校を設立すべきだ。中国は今、公民意識が非常に欠けている。公民学校を設立して、公民意識を普及させることを自分の使命としてほしい」。

残念ながらわたしにはその能力はないと感じていたのですが、1980年代にそう言われました。

袁:80年代にそんなことを言われたんですか。

高:当時のその世代といえば、許良英さんもそのうちの一人でしたが……

袁:許成鋼さん[*29]のお父様ですね。彼も浙江大学の出身でしたね。

[*29]許成鋼:1950年生まれ、経済学者。現在は米国在住。「不明白播客」でもたびたび中国経済分析のみならず、AI事情や政治における文革思想などについて論じている。父の許良英氏は科学史家として知られる。

高:そうそう、彼らは皆、私の母の友人たちでした。当時彼らはすばらしい文章を発表していました。当時、簡易なミニコミ誌のような形でそんな記事が広く読まれていたんです。私の[文革への]反省はそれを読む過程で次第に形作られたものでした。世の中にはそんなふうに灯りをともす人が常に存在するものなのですよ。[だから、]私たちはできることをやる。それが単調なことであっても、恐れることなく、やるべきことに取り組まなければ。そのことをはっきりと理解してやっています。その他に何ができるのかは考えていません。

●不完全な知識をネットで補う

袁:興味深い文革に関する本や映画を見つけたら、身近な人にも共有して、もっと多くの人に実際に何が起こったのかを知ってもらったりすることもできますね。高おばさん、なにかおすすめの作品はありますか? 毎回、ゲストの方に3冊の本または映画作品を紹介してもらっているのですが。

高:もう年で目が悪くなり、本を読むことは少々難しくなりました。良い本がたくさんあるのは知っているのですが、読めていません。

2020年に「得到」アプリ[*29]で劉蘇里[*30]の講演を聞きました。非常におすすめですね。

[*30]「得到」アプリ:ネット動画で人気を集めた知識型スタンドアップショータレントの羅振宇が運営する知識情報サイト。さまざまな知識分野の人物が講義を行う。オンライン版はwww.dedao.cn
[*31」劉蘇里:1960年生まれの文化人。北京で書店「万聖書園」を経営している。1989年の天安門事件時は中国政法大学を卒業し、大学で教鞭をとっており、天安門広場に集まった人たちの間で積極的な活動を行った。事件後逮捕、収監される。釈放後、万聖書園を開設、同時に書籍や文化、政治に関する評論活動を展開。書店はさまざまな政治的圧力を受けつつも、経営を維持し続けており、文化人の高い評価を受けている。

というのも、私たちの知識とその構造はとても不完全です。過去の教科書には多くの問題がありましたしね。そのチャンネルでは、劉蘇里と専門家たちが52冊の本を読み解いています。それを聞いて感慨部かかった。70歳を過ぎてやっと初めて人類の文明に触れることができた!と。本来、私のような学ぶことが好きな人間にとって当たり前のものだったはずなのに、その多くに触れることができないままきてしまったんです。本当に残念な話です(笑)。

袁:高おばさん、あなたは謙虚すぎますよ。ありがとうございます。皆さん、お聞きいただきありがとうございます。次回またお会いしましょう。

(オリジナル音源:「不明白播客:高阿姨:我目睹了奈飛版《三体》中的文革暴力」 )

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