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反抗期の高1が人生で初めて母にプレゼントをあげる話

始めまして。普段本とかは全然読んでなくて凝った表現とかはないので温かい目で見てください。

今日の朝食から目の片隅で捉えていた。いつもの朝に比べて母はどこか嬉しそうだし、父はそわそわしていた。初めは昨日の夜いろいろあったのかと思ったがどうやらそうでもないらしい。不意に父が耳打ちをした「今日母ちゃんの誕生日だよ。」普通の家の息子は誕生日の親にどうするかは知らないが、俺の記憶ではプレゼントは生まれて一度も自分の意志で渡した事がない。
俺は自分を少し大人だと思う時から、いわゆる反抗期というやつだ。喋りかけられればぶっきらぼうに言葉を返すし、無視もする。やれと言われればやらないし、やるなと言われればやる。
先日も父さんのお菓子を隠し、それを平気で知らないふりをしたがバレて母に泣くほど怒られた。反抗期の俺君はそこで嘘を付く事の何が悪いのかわからないと小学生高学年の言葉をツギハギに並べていた。
最近の俺のスローガンは合理的だ。もちろん、有限実行はしてないが、たまに思い出してそれで満足していた。それを思い出したのは偶然にも、本屋の後に通ったお土産コーナーだった。その時の俺は数ヶ月に一度読むNoteにこの実体験を載せればバズるんじゃないかと言う浅はかな考えだった。しかし、面白いと感じた後の子供の行動力は目を疑うものだ。とりあえず、お土産コーナーをぐるっと一周して少ないお財布ともお話をした。その結果、800円くらいのまぁまぁ美味しそうなクッキー?9枚入りを買った。ポイントはちょっとオシャレな紙バックとアーモンド。そのときの俺はこれをあげれば喜んで、先日の喧嘩は帳消しなのでは?合理的だ!とか小学生中学年のそれだった。その後、珍しく図書館へ寄りアガサ・クリスティの本を借りていった。見るからに難しそうだったが、あらすじが決め手だった。夜ご飯は近所の焼き肉屋へ行った。その焼き肉は緊張で珍しく肉が食道を通らなかったりとかじゃなくて、むしろお肉が美味しくてプレゼント?なんですか?とかそんなんだった。思い出したのは家に帰った後の風呂上がりで、ベットに隠していたやけに目立つ紙バックに助けられた。
ついに渡そうと決意をした。渡す直前までバレたくはないので足音を潜め、無駄に派手な紙バックをどうにか隠して階段を一歩ずつ落ち着いて踏み込んでいった。渡す瞬間、顔は見れなかった。俺が恥ずかしかったからだ。その後は何食わぬ顔で何事もなかったようにスマホを見ていたが、本当は反応が知りたくて目の片隅で捉えていた。その時観えた。天井を見上げながら微かな声で呟く「嬉しい」が。いつも朝早く起きてお弁当を作ってくれる母。俺の着た服を嫌嫌洗濯してくれる母。母は俺の生活の土台を作ってくれていた。そんなのは当たり前で、俺は常に感謝するべきなんだろうけど、その時やっとみえたのかもしれない。人に心の底から感謝されるのはなんか照れ臭いのとは違う達成感があった。俺は毎日その感情を母にあげるべきだった。そんな事を思った。

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