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耳が聞こえなくなって、"よかった"こと。

私は7年前に突発性難聴を発症して以来、進行性の難聴と共に暮らしていて、そのことについても、少しずつnoteに書いていきたいと思う。とりあえず、まずは、聞こえなくなって良かったと思えていることを(できるだけ見つけて)書いてみたいと思う。

主観的な症状として、聞こえている→補聴器を使わないと聞き取れない→補聴器を使っても聞き取れない、という進行のフェーズがあったのだけど、今回は主に、補聴器を使っても聞き取れなくなってから、2ヶ月余り経った今、それ以前との違いについて良かったと思ったことを挙げてみた。

ちなみに、現在の聴力は両耳70〜90dB程度。わかりやすい体感としては、声質や声量、周りの環境音などによっても大きく違うが、"音"としては、聞こえたり聞こえなかったり。"言葉"としては、大声で話されて、聞き取れるか聞き取れないような感じ。音として、言葉として、という違いは感音性難聴の特徴なのだけど、これについてはまたの機会に書きたい。



聞かなくてもいい話を、聞かなくて済む。

まずはこれ。声として聞き取れる状態で耳から入ってくると、いわゆるHSP気質なのもあり、気にしないでいようと思っても、無意識に心が反応してしまう。そもそも内容が入ってこないのだから、最近はとても楽である。他人と同じ空間で無言の空気が漂って、その圧力で居心地が悪いといったことも感じなくなった。

人の話を、丁寧に聞くようになった。

一方で、話を聞く必要がある場面では、しっかり、相手の話を細部まで聞こうとするようになった。と言っても、根性論での聞き取り作業は不可能に近いので、相手が言ったと思われることを、復唱したり、ジェスチャーで表してみたり、齟齬が起きないように、今まで以上に徹底した確認を心がけている。

そして、相手の顔をよく見るようにもなった。以前は、前述したHSPなどもあり、顔を見て話すのが苦手だった。もう一つ、聞き取ることに精一杯で顔を見る余裕がない。この二つの理由で、顔をあまり見ずに会話をすることが多かった。

聞こえなくなってからは、相手が話している間は口パクに近い状態なので、頷いたりしながら、さも分かっているかのような仕草や表情で話を聞き、途中から、手元のiPhoneで走らせている文字起こしアプリに認識されている会話の内容を、チラチラと確認して、内容を後追いで理解する、という一連の仕草が、すぐに身についてきた。相手にとっても、しっかり話を聞いているという印象が残って良いだろうと、私自身は思っている。

家族や近しい人との会話も、今まで以上に大切にするようになった。ときには話をすることすら億劫だと思っていた相手でも、いざ聞こえないとなると、少しでも機会を見つけては、話したいと思うようになる。不思議なものだと思う。

補聴器を使う煩わしさがなく、「聞こえないです」と伝えやすくなった。

そうやって人と会話をする時、以前は補聴器を使っていた。もちろん今でも、現在の進行した聴力に再調整すれば、多少の効果はあるのだろうけど、現時点では再度使用する生活に戻りたいとは思っていない。

補聴器を使っていた頃は、こちらが頑張れば聞き取れることも多かったので、つい補聴器のプログラムを変えたり、音量を上げたりして、相手に負担をかけないようにと、こちらが無意識に頑張ってしまう。それによる苦労や、劣等感を感じることも多かった。また、聞こえないですと伝えても、聞き取れることもあり、そこに嘘をついているような後ろめたさみたいなものもあって、伝えにくかった。「補聴器を使っています」と伝えると「だから聞き取れます」と捉えられて誤解を生むことも多かったこともある。

補聴器を使わなくなってからは、"本当に"聞こえないので、最初から「聞こえないです」「筆談でお願いします」などと、堂々と伝えて配慮を求めることができるようになった。これは本当に良かったと思う。感音性難聴の聞こえ方は、実際体験してみないと分からないようなもので、聞こえるけど聞き取れなくて…みたいな伝え方をするのも、あまり意味がないと感じていた。はっきりと「聞こえないです」と伝えられるような、耳の悪さになったのは、ある意味よかったと思えている。

物理的に、補聴器をつけていることで、マスクやメガネと重なったり、電池残量の管理や場面によるプログラムのコントロール、日常的なメンテナンスの面でも煩わしさを感じることも多く、これと無縁になったのもとても快適。

安全に動作や、移動ができる。

聞こえなくなるということは、気配を感じなくなるということでもある。これについては、実際に体験してみないと分からないところも多いが、空気感や音の方向が分からなくなり、背後はもちろん同じ空間にいる人やモノの動きすらわかりにくく、突然人が目の前に現れたり、知らないうちに近くに立っているということが、よく起こる。

これについては外を歩いている時も同じで、自転車はおろか車の走行音すらわからず、存在に気づきにくく、いのちの危険すらある。実際に、車などに接触してしまった経験も何度かある。そのため、普段から目視確認を徹底して、用心して歩いたり移動するようにしている。

例えば道を歩くときは、(私は聴力に多少の左右差があるため)比較的に聞こえない左側のスペースを塞いで歩く。要するに左側のブロックなどに寄って歩くようにしている。意図せず自転車や人に追い抜かれて、お互い危ない思いをしないためだ。

また、数年前から趣味や移動手段を兼ねて、クロスバイク(自転車)を積極的に使いはじめたが、その運転においても、目視確認の徹底はもちろん、道路交通法の遵守や、ゆとりのある運転を、やりすぎだと思うほどに心掛けている。そしてそれを続けたことで、目先で急いでも、所要時間に大差は生まれないことに気づかされる。反面、安全な移動が出来て、事故の可能性も減る。

(そして、自転車の走行空間の脆弱さを知り、車社会への疑問を抱くまでになっている。道路交通法の軽車両に関する規程を調べたり、他者と経験を共有したりして、多少の自負があるので、改めて別の記事で書きたい)

文字など視覚情報に、興味関心を持ちやすい。

普段の音声情報としての様々なインプットが激減した分、テレビなどの映像メディアをはじめ、新聞や本に雑誌など、視覚的に得られる情報は何でもインプットしたくなる。特に、文字については以前より親しみを持つようになっていて、読書の時間が明らかに増えた。こうやってnoteにおいて、𝕏よりは長い文章を書いてみたいと思う気持ちになったのも、同じ理由だと思う。

カフェなどでの作業で、即集中ゾーンに入れる。

カフェやファーストフードで過ごしたり、作業をするのが好きなのだが、今までは聴覚過敏もあって、耳栓を持ち歩いていた。周りで会話していたり、食器などの音が耳障りで、しんどいからだ。

これが、聞こえなくなってからは、音そのものが減って、常時耳栓をしているような状態になった。もちろん耳鳴りなどはあるのだけれど、それはもう長年のもので慣れたのもあり、そこまでは気にならない。むしろ余計な音が減って、たとえ隣で学生さんの集団が(おそらく)大声で会話していても、すぐに集中出来るようになった。これは予想外の影響で嬉しい。

他の弱者へ対して、想像力が持てる、持とうと思えるようになった。

これは一番大きい話。今に始まった話ではなく、難聴を患って以来、今までは感じることのなかった不便さを知り、同じ難聴や聴覚障害の人はもちろん、他の、例えば視覚障害や身体的な障害、精神的な障害など、色々な、いわゆる健常ではない人たちの抱える不便さへも、想像力を持ちやすくなった。

端的には、例えば、耳が聞こえない私からすると便利この上ないセルフレジが、視覚障害者には不便だったりであるとか、家族が車椅子を一時使用していた時期には、私も乗って体験させてもらい、そこから見える景色や暮らしにくさを知ろうとしたり、例をあげればたくさんある。今私がやっている、点訳ボランティアに興味を持ったのも、同じ理由からだと思う。

これは知らない知ろうとしないのが悪いという意味ではなく、本当にその当事者にならないと気付けないことが、社会にはこんなにたくさんあって、こんなに見えていなかったんだなという驚きの方が大きかった。実際、私自身が聞こえていたときには、耳が聞こえない人たちの暮らしについて、想像したことすらなかったのだから。障害云々でなくても、もっと広義に、他者への理解を試みようとする気持ちにも繋がっていると思う。

生き直している気持ちで、生活できる。

最後に。聞こえなくなって、今まで何も考えなくても普通にできていたことが、(今までの方法では)できなくなった。今はまだ、進行して間もないことから、どうしても出来なくなったことに目が向く。それはしかし、新しい自分なりのやり方を開拓できるということでもある。

些細なことだが、例えば大好きなカフェでの注文。今までよりも聞こえなくなって初めてカフェへ行きたかった私は、とても不安な心持ちで緊張しながら入店した。入店するまでにも、店内の様子を観察して、レジに人が並んでいないか。ゆっくりと注文を聞いてくれるような店内の雰囲気か、などを観察して、入店するタイミングを計った。もちろん店員さんの声は聞き取れない。聞こえないのでジェスチャーなどでお願いできますか?と事前に伝えると、メニューを指さしたりしながら、注文を取ってくれた。

コーヒーを受け取って席についた時、大袈裟ではなく、何かとても大きなことを成し遂げたような気持ちで嬉しくなった。

カフェは一例にすぎず、この場面では、文字起こしアプリを使えるか、筆談の方がスムーズか、ジェスチャーだけでいいか、カンでやり過ごせるか、電話はどうするか、どうしても無理な時はどう対処するか…などなど、日常生活の微に入り細に入り、毎日が、チャレンジとトライアンドエラーの日々。事前にシミュレーションしてうまくいった時は嬉しいし、その経験はノウハウとして、自分の中に少しずつ蓄積させている。これは捉え方を変えれば、とても新鮮で楽しい暮らしなのではないか。今は少しだけ、そう思えている。


今のところ気づいたことを挙げてみたが、また感じたことがあったら追記していきたいと思う。

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