「ファミリー」を掲げる組織の危うさ
今日Twitterに流れてきて知ったある告発から、「ファミリー」についての考えがあったことを思い出しました。
「○○ファミリー」と呼び合う連帯感
会社、団体、部活やサークルなどが、自分たちチームの親しさや連帯感を表すために、「ファミリー」という言葉を掲げることがたまにあります。
家族を表すファミリーという表現。この括りに含められたとき、皆さんはどう感じるでしょうか?私はどうしても気持ちがわるく、ぞっとしてしまいます。以前所属していた組織が、ファミリーであることにこだわりながら崩壊していった経験があるからかもしれません。
海外ではfamilyをmembersくらいのカジュアルなニュアンスで使うこともありますが、日本で「私たちはファミリーだ」と言った場合には、少しその重さが違ってくるような気がしています。
スタートアップやベンチャー企業が使っているのも見かけます。ファミリーを掲げることで、より近しい間柄であることを双方で認識したり、温かみや風通しの良さを演出したりと、採用面でも効果があったりするのでしょうか。
ファミリーは、論理が通用しない唯一の共同体
私が「ファミリー」を掲げる組織を危険だと思う理由は、本来の「家族」という共同体の特殊さゆえです。
「家族」というのは、この世に存在するあらゆるコミュニティ形態の中で、唯一「論理が一切通用しないコミュニティ」であると思うからです。
無償の愛、というように、自分の息子であればたとえ犯罪者だとしても愛します。子どもが何かの罪を問われたら、親は理由も聞かずに「うちの子はやっていません」と言うでしょう。血の繋がった親子や兄弟姉妹なら、どんなに真逆の価値観をもち衝突したとしても、どこか許しあえてしまうものです。
そこに論理は存在しません。他者が介在しようとしても、たいていの場合はうまく機能しないのです。ロジックが排除された閉じた空間で、当事者同士でほとんどのことを解決し、無条件に支え愛し合うのが「家族」だと思っています。
これはあらゆる共同体のなかでも究極体であり、たまたま集まった他人同士でつくられる組織に簡単に再現されてしまっては困ります。
会社やチームに「ファミリー」感を求めるとどうなるか
私たちは複数のコミュニティに所属して生きていますが、中でも多くの人にとって人生の大部分を占めるのが「会社」や「仕事上のチーム」という組織だと思います。
会社という共同体は、利益(金銭的利益に限らず社会の公益など含む)を追求するという共通目標のもとに、他人同士が集まってできています。つまり第一目標として「企業活動の成功」という正解があるので、ある程度はそこに論理がなくては成り立ちません。
しかし「ファミリー」の世界に論理は存在しないので、関係を維持するために、もしくはその関係が崩れそうになったとき、「感情・気持ち」という非ロジカルな力が大きく作用します。
これがプラスに働けば、「俺たちはファミリーなんだから、どんなときも助け合うのが当然だ」となります。しかしマイナス面が出ることのほうが多く、「ファミリーなら協力して当たり前だ」「○○ファミリーとしての方針に従ってもらわねばならない」というように、ロジックの破綻した説明で人間関係がマネジメントされそうになることが出てきます。
ファミリーとして気に入らない者は排除する。そういうことも、ロジカルに説明できない現象として起こってきます。
「ファミリー」は実の家族だけにしておこう
「家族」というのは対等でフラットな関係だと思うかもしれませんが、実はそんなことはありません。
基本的には、子は親に従います。本人の意思は尊重しながらも、大きなことの決定権は親にあり、親がいなければ子は生きていくこともできません。
会社やチームが「ファミリー」を掲げて仲良しアピールをしているときは、実体はただ家長制度のような古いスタイルが適用されているだけのこともあるのです。
そもそも、本物の「家族」とは素晴らしいものです。一朝一夕では築けない尊い関係で、会社やチームごときが再現できるものではないはずです。
軽々しく「ファミリー」という言葉を使って囲い込むのはやめ、実の家族を大切にしましょうね。
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