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叔父さんの葬式

喪服の上下に薄手の黒いコートまでをかっちり着込み、仮寓するマンションんからバス、JRを乗り継いで足立区の葬儀場まで、最後は舎人ライナーなるモノ・レールの乗客となりながら、晴天の正午、ひとり到着す。

集合時間の少し前だったため、入り口付近で待っていると、次姉の運転するBMWが、駐車場にすべり込んできて停まった。

何となく、そのまま離れたところで眺めていると、すべてのドアがいっせいに開いて、ぞろぞろ、という感じで85歳の母、60歳の長姉、54歳の兄が出てきた。最後もたついているので歩み寄り、後部ドアを押さえていると、88歳の父も苦労して、ようやくその天井の低い外国車から出ることに成功した。

スタッフに案内されるままエレベーターに乗り込み、ドアが閉まろうかという時に、クルマを停めに行っていた次姉が、赤く染めた長い髪を左右に揺らしながら駆け込んで来て、ようやく家族六人がそろう。

父の兄である、隆文叔父さんが101歳で亡くなって、そのお葬式でのこと。

世界的パンデミックとなったウィルス性の肺病の流行による行動規制もあり、六人がそろうのは一年以上ぶりであるが、一家全員の老境ぶりを直視し、夢でも見ているような、またはイタリアの古いモノクロ映画でも観ているかのような、非現実感を味わう。

かくいう、末子であるわたし自身がすっかり禿げ上がり、今年50歳になるのだから、嫌になってしまう。

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葬儀が終わり、焼き場のある斎場までは、クルマで分乗して行くことになっていた。

喪主である叔父さんの娘のMさんと長姉とで、前の晩からクルマを出す、出さないで数度メールのやりとりをしたのだが、結局クルマで来る人が多いことが判明し、それであれば、とわたしは辞退して、冒頭のごとくひとり電車で現地に来たのである。

BMWは五人乗りなので、わたしは乗れない。Mさんの指示で、「キモトサン」のクルマに乗せていただくことになった。

キモトサンは六十代後半とお見受けしたが、白い髪を短く刈り、かくしゃくとしたご老人であったが、何せ初対面である。家族以外はほぼ見知らぬ三十名ほどの参列者に混じって、いざ分乗のごたごたに見失ってはならぬとはらはらしたが、案の定見失った。

キモトサンに似た、しかし絶対違うであろう白髪短髪の男性に、「あの、タカーキです、クルマに乗せていただく」と名乗ると、安に相違し事情をわきまえた方で、「ああ、キモトサン、いまトイレだから」と諭された。

しかし、

「キモトサン、結局駐車場いっぱいで、隣のスシローに停めてるから、トイレから出てきたら、そっちに一緒に行って」

と、いやに難しいことを言って、去ってしまう。

待っていると、運よくキモトサンはほどなく洗面所のほうから現れた。

「タカーキです。クルマに同乗させていただく」

間髪入れずに名乗ると、ああ、というような感じでうなずき、すたすたと前を歩いて行く。安堵しつつ背中について、スシローの駐車場をしばらく歩くと、キモトサンはクルマのキーを押して、無線でマイ・カーのロックを解除する。

駐車場の隅の、植込みの背の低い木の葉っぱに、右半分が半ば埋もれている白のエスティマのハザード・ランプが、二度明滅した。

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「霊柩車、お坊さんを乗せたクルマ、その後に付いて走ってください」

まだ同乗する人があるはずだ、とキモトサンとわたしの見解は一致していたので、わたしは三列シートの最後部の隅で身を固くしていたが誰も来ず、葬儀場の前までいったん出ると、最前の事情通がいたのでお伺いを立てるにいわく、キモトサンとタカーキ君ふたりで出発してください。つきましては、と、前述の指示が重ねてあった。

「霊柩車が出て、その後にお坊さんを乗せた車が出て、その次だそうです」

おうむ返しに、今度はエスティマの三列目から二列目にこっそり座りなおしたわたしが、隊長のキモトサンに報告する。

ただ、霊柩車はたぶんわかるけれど、お坊さんを乗せたクルマが見分けつくのかどうか。路上停車中の葬儀場の前で後ろばかり見ていると、真後ろに、銀色の国産車がぴたっとつき、見れば運転手は事情通氏で、助手席の女性、細君であろうか、豊かな白髪の老女が、手でバッテンをこしらえている。

その銀色の国産車のわきを、足立ナンバーの黒塗りの霊柩車が過ぎ、もう一台、シルバーの流線形がするりと抜ける。見れば、老女のバッテンが、強くマルに替わっている。まるで、連呼するように。

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移動中は、これといって会話もなかった。

前日が関東一体を見舞う春の嵐で、この日は一転、車窓から目を向ければどこまでも抜けるような青空。斎場まで5キロほど。舎人ライナーの車窓からも目を楽ませてくれた、河川敷に陽をいっぱいに浴びた、だだっ広い江戸川を渡った。

スマホで行き先設定し、ナビを起動したのは先行車を見失う心配より、手持無沙汰のあまり、会話のいとぐちのためである。

橋を渡り切った先の五差路で、そのスマホのナビのルートと異なり、エスティマは左折車線に並んだ。あれれ、と思う間もなく、霊柩車と流線形シルバーと事情通の国産車が、右隣の車線に続けて並ぶ。見れば確かに助手席の老女が、すまし顔を前に向けて、黒い和服の襟を立ててちょこなんと座っている。

かける言葉を探している間に信号が変わり、エスティマは左折し、ウィンカーのチッカ、チッカが静まる。

片側一車線の、細道である。

「あれ、追い越しちゃったかな」

しばらく走って、先行車がいないことに気付いたキモトサンが、ぼそり。

それらの車両が直進したむねを伝えると、

「そりゃ、遠回りだ」

即座にキモトサンは断じた。

「この道のほうが、ダンゼン早い」

宣言どおり、焼き場のある斎場に、われらのエスティマは一番に到着した。

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お骨上げは、四歳上の兄と一緒におこなった。

わたしたちは順繰りに三度ほど、それぞれに長い箸を手にし、叔父さんの骨を無言で拾った。

小さいころ、家にいると、その兄に、

「ケンケンしようぜ」

と、便所に誘われることがあった。

兄が小学生で、わたしはまだ未就学児だったかも知れない。

その頃は生家は木造の平屋で、汲み取り式の和式便所だった。白いプラスチックのふたをどけると、静謐なばかりの便槽の闇があらわれる。

わたしたちはそろってズボンを下ろし、笑いながら小さなペニスを取り出し、ほとばしる小便の放物線を、ケン、ケン、といいながら、チャンバラを模して交差させるのである。

兄のひとり息子も、今年24歳になるという。

(了)




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