滔天

宮崎滔天「三十三年之夢」とアジア主義の展望


「三十三年之夢」という奇書

 2年前(2018年)の夏のことである。私は盛夏の赤石山脈に遊び、甲斐駒ヶ岳から聖岳に至るおよそ10日ほどの合宿に参加したが、その間、寝る前の短い時間から、台風をやり過ごすため終日臥せていた時間まで、空いた時間のほとんどは宮崎滔天の自伝「三十三年之夢」を夢中になって読んでいた。何故そんな黴の生えたものに夢中になっていたかといえば、滔天の冒険譚が自らの疲労困憊・穢身垢顔の態に対する慰めになった面も確かにあったのかもしれないが、それだけでは断じてない。自らの待ち望んでいたものがそこにあったのである。即ち、アジア主義とナショナリズム、文明と未開、東亜の夢と日本の夢、革命とユートピア…。それらの全てが交差する一人の豪傑の物語を、私はそれまで蒙昧にして知ることがなかった。

 先ほどは「三十三年之夢」を黴の生えた古い物語などと云ったが、事実としてはそこまで忘れられ切ったものではなく、「少しアジア主義に興味があれば当然知ってるよね?」ぐらいのものではある。何故かnoteでは検索をかけてもチットモ引っかからないが…。日本人が著した中国革命に関する書でここまで広く読まれたものは無い。かの名高い(悪名高い?)北一輝の「支那革命外史」すら遠く及ばないだろう。

 「三十三年之夢」のあらすじは以下の通りである。


1. 肥後国荒尾に生まれる。父は剣道場を営んでいたが、滔天が幼い頃に亡くなった。実兄7人はほとんど早逝し2人が残るのみ。養兄1人は蛤御門で討死した討幕の志士。「先天的自由民権家」として育つ。


2. 中学校をやめ徳富蘇峰の大江義塾に入る。極端な自由放任主義に喜ぶ。しかし次第に同窓生や蘇峰に疑問を覚えるようになり、辞めて東京に出る。しかし、質朴だった旧友がオシャレなんかして色に溺れている様や、某有名私塾の堕落っぷりに嫌気がさす。


3. 教会に出入りし、聖書を読むうちに感動し耶蘇教徒となる。地元の母親や小作人まで入信させるも、教会の方針や聖書の教えに対して疑問を覚え、信仰を捨てる。


4. 2番目の兄の影響を受け、中国革命を志すようになる。上海に渡ったり結婚したりシャムに遠征したりする。


5. 孫文に会い、支持者となる。亡命した康有為をも支援し、中国革命運動に本格的に関わる。フィリピンの対米独立戦争に関わる。


6. 恵州義軍に呼応しようとシンガポールの康有為を訪ね、現地当局に逮捕される。シンガポールを追放された後、船中で仲間と計画を練るも、悉く失敗。

 終盤は相当省略してあるが、大まかな話の流れは掴めると思う。。要は革命の失敗譚なのだが、これが広く日中の読者の心を捉えた。この書が世に出るとすぐさま中国で抄訳が出版され、当時はまだ一部に通じるのみであった孫文の名を一躍世に知らしめたのである。また、日本の著名人の反応としては、吉野作造の激賞が有名である。1926年に出た、吉野自身が校訂した復刻本の解題より引く。


「…彼の行動の正直なる記録というだけでも大なる価値があるのだが、そのほかに私の敬服に堪えないのは、彼の態度のあらゆる方面に亘って純真を極むることである。彼は幾多の失敗をくり返し、また幾多の道徳的罪悪をさえ犯している。それにもかかわらず、われわれはこれに無限の同情を寄せ、時にかえって多大の感激を覚えさせられ、また数々の教訓をさえ与えられる。なかんずく、支那の革命に対する終始一貫の純情の同情に至っては、その心境の公明正大なる、その犠牲的精神の熱烈なる、共に吾人をしてついに崇敬の情に堪えざらしむる。私はここに隠すところなく告白する。私は本書によってただに支那革命初期の史実を識ったばかりでなく、また実に支那革命の真精神を味うを得たことを。人あり、もし私にその愛読書十種を挙げよと問うものあらば、私は必ずその一として本書を数えることを忘れぬであろう。」


 つまりは、一本の物語として実にデキがよく、人をして感奮興起せしむる力があったのである。無論、中国革命の第一級資料であることは言うまでもない。


戦前アジア主義の顛末

 一つ断っておきたいのは、私自身、滔天の思想全般、特に「三十三年之夢」以降の滔天の活動について、少なからず疑問を懐いている。彼はこの後に革命評論社を結成し、辛亥革命以降は孫文らが率いる国民党を支援して晩年に至るわけだが、日本人による中国革命支援の運動は五・四運動あたりから明らかに行き詰まり始める。そこには政府の対中強硬策が直接の原因としてあったことも間違いないのだが、当の大陸浪人たちも、多かれ少なかれ政府の動きに同調し、中国の人士・人民との乖離は甚だしくなる一方であった。「日支親善」はもはや官製の侵略スローガンと化し、大陸浪人たちは侵略の斥候、帝国主義の太鼓持ち、豪傑気取りの一兵卒と異ならなくなった。


「ただ『三十三年の夢』の続編は書かれなかった。かりに書かれたとしても、同様の成功を収めることはできなかったろう。滔天のユートピアは、孫文の理想と微妙な点で一度だけ交叉したが、中国革命の進展と、日本の反動化とが、二度目のめぐりあいを許さなくさせた。」
(竹内好『日本のアジア主義』、「日本とアジア」所収)


東洋の「夢」?

 現在、中国の共産主義革命が成ってから既に70年が経った。近年、習近平指導部からしきりに発せられるスローガンの一つに、「中国夢」つまりは「中国の夢」がある。他の「脱貧困」「反腐敗」といった標語よりも、なんとも曖昧模糊とした言葉である。「中国特色社会主義」のような、「じゃあその『特色』ってなんだよ」などとツッコミを入れたくなる標語もあるが、「夢」なんてのはそれよりも更に曖昧である。

中国夢

 この「夢」という言葉について、日本の詩人である谷川雁は、ちょうど毛沢東による中国革命が成功し、大躍進などの野心的な(おおむね惨い失敗に終わった)運動を始めた頃、次のように語っている。


「民衆の軍国主義、それは民衆の夢のゆがめられた表現にすぎません。日本の民衆の夢とは何か。それはアジアの諸民族とおなじく法三章の自治、平和な桃源郷、安息の浄土であります。それは古くかつ新しい夢、昨日も今日も生きている夢であります。知識人すらアジアにおいては権力を離れ、素朴な田園に帰ることを生涯の魅惑としてきたではありませんか。」
(谷川雁「東洋の村の入口で」)

 この谷川雁という人は農本主義者なのだが、「原理主義的」アジア主義者でもある。彼は日本の青年将校が蹶起した二・二六事件と、毛沢東の根拠地理論との間に、東洋的理想の交叉を見るのである。50年前に滔天と若き孫文との間で、微妙に交叉した「夢」。それをひたすら「ユートピア」と「革命」の軸で突き進めた思想家として、彼を位置づけることができるだろう。

 無論、谷川雁が活躍した時代と今とでは、アジア主義をめぐる状況は大きく変わり、アジアの「夢」への意味付けも大きく異なってくる。彼が語った「素朴な田園」としてのアジアは、現実として姿を消しつつある。日本はその後すぐに高度成長期に入り、1960年代を境にしてほぼ西洋化する。東アジアの「四頭の小龍」、即ち韓国・台湾・香港・シンガポールは、その国土の小ささにも関わらず、いまや世界屈指の豊かさを誇る。中国は今も高度成長のさなかにあり、今後は世界一の経済大国となると言われている。シンガポールのリー・クワンユーなどは、「アジア的価値などというものはない」と明言するに至った。

 こうした状況に対して、例えば松本健一は、西洋的な優れた価値を「愛」によって東洋が包み直す時に、そこに「共生」というアジア的価値観が浮きでてくると予想している。彼は、アジアにおける民族・文化の多様性、岡倉天心の「アジアは一つ」、竹内好の「方法としてのアジア」の三つを総合してそのように語るわけだが、いささか曖昧かつ楽観的な結論という感は否めない。結局、それは西洋的価値と何が異なるのだろうか? 戦争ばかりしている西洋のやつらだけでは「共生」の実現などできまいという、ある種のヒガミ根性に似たところがあるのではないだろうか?

 「三十三年之夢」の中で滔天の口が語る「夢」は、日本の夢であるとともに、中国の夢でもあるし、韓国の夢でもあるし、他のアジアの夢でもある。そして何より、西洋の夢でもある。本編中、兄の弁舌によって滔天が中国革命運動に目覚める場面で、兄はこう語る。


「人はいう。『支那国民は古を尊ぶの国民なり、故に進歩なし』と。これ思わざるの甚だしきものなり。彼ら、三代の治を以って政治的理想となす。三代の治や、実に政治の極則にして、われらの思想に近きものなり。彼ら古を慕うゆえんのもの、すなわちまさに大いに進まんと欲するゆえんにあらずや。ただ現朝政柄を執る三百年、民を愚にするを以って治世の要義となす。故に人疲れ国危く、遂にみずから弊毒の禍を受けて、支ゆる能わざらんとす。これ豈に命を改め極を立つべきの好機にあらずや。言論畢竟世に効なし、願わくばともに一生を賭して支那内地に進入し、思想を百世紀にし、心を支那人にして、英雄を収攬して以って継天立極の基を定めん。もし支那にして復興して義に依って立たんか、インド興すべく、シャム、安南振起すべく、ヒリッピン、エジプト以って救うべきなり。しかしてフランス、アメリカのごとき、いささか理想を重んじ主義に立たんと欲するものに至っては、必ずしもわれらの敵たらざるやも知るべからず。思うに、あまねく人権を回復して宇宙に新紀元を建立するの方策、この以外に求むべからざるなり。」


 アジアの理想を追い求めること、そして同時に徹底して西洋の理想に忠実であること。そこに「中国夢」が、日本の夢が、そして全世界の夢が交叉する一点が見いだされるはずである。「三十三年之夢」は、その一点の手がかりとして、今後も参照され続けるだろう。

この記事が気に入ったらサポートをしてみませんか?