見出し画像

縁切り神社に思う神様の役割

随分と前、7月になるが、生まれて初めて「縁切り神社」に行った。別に誰かと縁が切りたかったわけではない。旅行をともにした友人の提案にのって、軽い気持ちで訪れてみた。

訪れる前は、誰かと縁を切りたい人が集う呪いのスポットのような漠然としたイメージを抱いていたけれど、実際に訪れてみるとそんなことはない。神社に残されている絵馬を見ても、「怠惰な自分とお別れしたい」だとか、「良縁がありますように」だとか、前向きなメッセージが意外にも多かった。

というのも、「悪縁を切り、良縁を結ぶ」のがその神社の趣旨なのだという。縁切りと縁結びは表裏一体。極めて示唆的なメッセージだと思った。

さて、特定の誰かと縁を切りたくも結びたくもなかった私は、ひとまず参拝して、「悪縁を切り、良縁を結ぶ」ことを願った。家族はどんな悪縁でも切らないで、と、心の中で一言添えて。

あれから3か月が経った。

3か月も経つと意外なものだ。この間、たくさんの人や物と縁が切れ、結ばれてきた。「縁切り神社」に行く前まではしょっちゅう連絡をとっていた人と連絡をとらなくなったり、それほどの関係ではなかった人と、思っていたよりずっと仲良くなれたりもした。

神様にとって、あの人は「悪縁」で、この人は「良縁」であったのだろうか……。大きな変化に心が折れそうにもなったけれど、今も私が生きているのは、時折この問いが脳裏をよぎっていたからだ。

「神様」という存在は、このためにあるのだと思う。

「神様」のような「人知をこえた存在」は、私たちに立ち止まる機会をくれる。世の中には嫌なことがたくさんあるけれど、私にはどうすることもできないのだから仕方ない……そう冷静になって割り切れる機会をくれるのが、空想上の「人知をこえた存在」なのではないだろうか。

おみくじもそうだ。おみくじはずるいな、と思う。誰にも当てはまりそうなことが、きわめて抽象的な表現で並べ立てられている。

けれど、読み手がその字句を解釈する営みこそが、おみくじの本質だ。「間違った行いをするな」という字句を読んだときにふと浮かんだその行いは、読み手にとって間違いなく「間違った行い」だと分かる。こうして、おみくじの抽象的な表現が、読み手の心を開いていく。

人知をこえた存在に言われてしまったのなら、仕方ない。行きづまったり、勢いで駆け抜けてしまいそうな人生のなかで、ふと立ち止まる機会を与えてくれるのが「神様」だ。

宗教や神を心から信じているわけではないが、このような意味で、「神様」という存在はとても”ありがたい”と思う。

この記事が気に入ったらサポートをしてみませんか?