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おれは自分探しと聞くと『ドラゴンクエストⅦ エデンの戦士たち』を思い出す。「ひとは、誰かになれる」つまり、漁師の息子になった偉大な勇者の話だ。

自己肯定感のない人

「何者かになりたい」「アイデンティティを獲得したい」ほとんど同じ事らしい。どうしてそんなことにこだわるのだろう。自分のような単純な人間はそう思ってしまう。

「自分は何者でもない」ということは思うが、同時に、「周りのやつらも何者でもない」ということを思う。大きくみると、人はそんなに他人と変わらない。小さくみると、すべての人は個性的である。

自分はそう思うので、「何者かになりたい」とか「自分探し」みたいなものは、なんかもっと本当は違うことを望んでるんじゃないかなみたいなことを思う。何かしら満たされないものがあっても、それが何かわからない、結局そういうことなんじゃないかと思わなくもない。

個人的には、そういう「どう思うか」ということに悩んでいる暇があったら「どう行動するか」または、しないか、ということだけ考えたほうがいいように思う。行動とか表現されて表に出てくるもの以外で人のことはわからない。それは自分自身も同じだと思う。頭の中から抜け出すことなんじゃないかなあと。

「ひとは、誰かになれる」

『ドラゴンクエストVII エデンの戦士たち』は2000年8月に発売された。414万本を売上て国内のPSソフト売上ランキング一位の名作だ。名作・・・まあ名作でいいだろう。そのキャッチコピーが「ひとは、誰かになれる」であった。

『エデンの戦士たち』について忘れている人もいるかもしれないが、例の石板を集めたら新たな土地が解放されていく、要するにかわいらしいマリベルにずっとボロクソに言われるやつだ。そしてキーファはどっか行く。そして話はめちゃくちゃ長い。

なんかよく覚えていないが、結局魔王か何かが世界を封印してたかなんかだったような気がする。主人公は漁師の息子みたいなやつだ。

ちなみに、もう細かいことは覚えていないが、ストーリーがなんかあんまり救いのないようなお話が多いのが特徴だ。人間の汚さや弱さといったものが結構普通に描かれる。主人公たちは、人々を救おうとして奮闘する、しかし、その結果が必ずしも良いものとはならない。人間とは・・・という、わりと珍しいテイストの物語だ。

なんの話かというと、「ひとは、誰かになれる」というのは、ゲームのコピーとしては、非常にストレートでよろしい。主人公になりたい、勇者になりたい、サムライになって旅をしたい、ゲームというのは誰かになる遊びだ。

それはゲームや物語の中でもある。最近よくある、トラックにひかれたら異世界でひとかどの人物になるというのもそうだが、物語の主人公が、生まれつき王子とか、生まれつき勇者とかではなく、平凡な「オレ」がだんだん何者かになっていくパターンの話は、いつごろからか非常に慣れ親しんだものとなっている。

しかし、『エデンの戦士たち』の主人公は違う。偉大な旅の果てに、結局は漁師の息子に戻ることを選ぶのだ。強いて言えば、凄腕の父に認められたりする程度だ。なんか冴えない容貌のわりにはやたら強いやつだった気がするし、どう考えても「誰か」になれそうな主人公が、最後はこれといって誰でもないところに戻る。主人公が実は王様の息子とかもあれば、人が魔物になり、魔物が人になるとかもアリのドラクエの世界で、漁師の息子が結局漁師の息子になる。それが良い。

現実世界で、そんなスゴイ旅をする人は、まあめったにいないわけだけど、誰もがそういう旅のような経験を必要としているのじゃないのかな、ということは思ったりする。そう考えると、「自分探し」みたいな名前で呼ぶのはダサい気もするけど、自分なりの納得感みたいなものを見つけるまで、色々さまよってみるのもアリなんじゃないかな。というか、それなしで自己肯定感を得るみたいなことって、結局なんかの拍子に崩れてしまうんじゃないかなあ。ということを思った。


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