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完全に飽きたお出かけと、そのゆとり

人には、頭を空っぽにする時間が必要だ。そう思う。

とはいえ、本当に空っぽにするのは難しい。ミスターポポと修行するソン=ゴクウを想像して2秒ぐらい頭を空にすることに成功しても、あっという間にしょうもない考えが浮かんでは消えていく。

集中してひとつのことを考え続けることと同様に、なにひとつ考えないことも難しい。

マインド・フルネス的なもののキョーカショによると、そうやって、考えない状態→雑念→雑念を自覚して追い払う、みたいな過程に意味があるらしい。それはそうなのかも知れない。

ただ、最近自分が発見したのは、もっと何でもない方法だ。

子どもを育てた経験があれば、何割かの人はわかってくれるだろう。世の中には、ひたすら同じことをしたがる子どもがいる。または、そういう時期がある。わかってくれない何割かの人は、飽きっぽいお子さんをお持ちなのだろう。それはそれで大変そうだ。

とかく、我が子は、決まった場所に出かけたがる傾向がある。となると、子守りぐらいしか取り柄のない自分は、ひたすら同じ場所に子を連れて出かけることになる。

言うまでもないが、あっという間に飽きる。

大人の心は貧しい。子どもの頃の鮮やかだった日々。冒険に満ち、長かった一日。そういうものは思春期とともにあっさりとどっかへ消え去り、日常に退屈し、やれ刺激的なアクティビティだ、食べたことのない美食だなどと、ないものを延々と探し始める。

ぼくはそういうものにささやかながら抵抗したいと考えてきたタイプの人間だ。近所を歩くだけでも、いくらでも発見はある。ガードレール、マンホール、標識、電柱に電線。日常は人の生み出した創作物で満ち溢れている。そういうものに面白さを発見していくのは楽しいことだ。

しかし、子に連れられて行く遊び場というのは、そんなぬるい考えなどゆるさぬとばかりに、反復して、ただひたすら反復して自分の前に現れる。いくら公園のすみっこを歩き続けても、新たに発見できるものには限界がある。季節は変わっていくが、もう10回目とかになってくると、それももう繰り返されたフィルムのように色どりを失ってくるものである。

そして、ぼくは、休日の公園で無になることにした。

何も考えないわけでも、何も見ないわけでもない。ただ、全てが見慣れたもので、とにかく刺激が少ない。そんな状態だ。頭をアイドリングさせるにはちょうどいい。つまり、無というか、ボーっとしている状態である。何か悟りめいたものに近づける気配はあまり感じないが、ひたすらボーっとし続けるというのは悪くないものだ。少なくとも休息にはなる。

そうしていると思い出すのが、「儀式」についての本から学んだ「代償性制御モデル」のことだ。

これは、ある領域で制御できないことを、別の領域で制御できるものを見つけることで埋め合わせるという心理的なメカニズムをいい、不確実な環境・・・漁の成果とか、今年の天気とか・・・が人々にストレスをもたらす場合に、制御可能な事物・・・完璧な手順で行われる儀式のような・・・が、人々に状況がコントローラブルであるように錯覚させ、ストレスを軽減する(または不確実性に立ち向かえるようになる)といったようなことを説明したものだ。たぶん。

決まったように、親を引き連れて出かけ、決まったような行動を取り、はたから見ると何一つ新しいことのない一日を過ごす。それは子どもならではの感性の豊かさであるように思えるが、もしかすると、コイツも不確実な日々に疲れているのかも知れない。

成長途上にある子どもは大人のように、何事も経験済みでなんなら飽きてる、という風にはいかない。好奇心とエネルギーに支えられ、日々をエンジョイしているように見えて、案外どこかでバランスをとっているのかも知れないな。そんなことをぼんやり思ったりする。

自分はどうだったろうか。ヴィデオゲーム、水泳、ジョギング。確かに生活の一部には、「反復する目新しくないこと」がいくらかあったように思う。

仕事を始めてからは、どの1年をとっても同じとは思われないという事が増えた。決まり切ったことをすれば、それで済むという仕事もあまりない。そういう意味では、自分は大人になってからの日々も不確実性に満ちているほうなのかも知れない。そんな自分にとって、完全に飽きている休日のお出かけというものは、案外欠くことのできないものだったり、するのだろうかどうなんだろうか。

こうした、ふわっとしたことを思い浮かべては忘れていく。そんな休日も贅沢で悪くない。暇と退屈を友とせよ。そういうことなのだ。

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