752年に奈良の大仏が開眼(完成)したのだが、聖武天皇が敢行したこの国家的大事業は、「我が日本にも中国にあるのと同じような大きく金色に輝く大日如来が欲しい」という、いかにも小中華の思想である。この大仏の建造と金メッキ作業を行った行基(668〜749)も多くの信者を得た不思議な僧だ。土木業者であり、いつも1000人ぐらいのエンジニアが行基に連れ従っていたようだ。行基は道昭(629〜700)という法相宗の僧の弟子である。そしてこの道昭こそは、何と653年に遣唐使で長安まで行き、玄奘三蔵から直接、習った日本人なのである。もう一人いるようだ。この事実は重い。日本人僧の中で唯一「三蔵」の称号を与えられたのが、法相宗の霊仙(759〜827)という僧である。この霊仙は、空海、最澄と遣唐使の同期(中略)最澄の場合は、前述した義真という弟子がいた。義真は渡来人(中国人)との混血で、中国語ができた。だから最長の通訳として一緒に中国へ渡った。義真は、最澄の次の天台宗の2代目門主(=最高の地位)になっている。こういう事実を天台宗の本山は隠していない(中略)最澄が空海に『理趣釈経』という仏典を貸してくれと頼みに行っている。しかし、空海は「悟りは文章修行ではなく実践修行によって得られる」と言って、冷たくあしらっている。813年のことで、空海が40歳、最澄が47歳の時(中略)最澄を含めての5人の弟子たちも、空海に灌頂(頭に水を垂らす儀式。キリスト教のバプテスマ、洗礼によく似ている)の儀式をしてもらっている。だから空海のほうが格は上だった。しかし最澄(伝教大師)の方が正式の国家エリートだったようだ。最澄の弟子の泰範が空海の元に行って、比叡山に帰って来なかった(816年)りして、2人は激しく派閥闘争と思想闘争をしている(中略)このような日本の仏教の中国からの輸入とフランチャイズ(支店経営)の基本のことを日本人がきちんと理解しようとしない(中略)同時代人として最澄と空海の2人とも当時の中国の仏教界の影響を強く受けているから、観音信仰と弥勒信仰を持っていた。空海は死ぬ2年前に、遺言となる最後の論文を書いている(中略)ここにはまさしく弥勒下生が説かれていた(中略)空海はこのように遺言している。「私は弥勒菩薩と共に、下生(地上に降りて来て)して皆を救済する」と。これと同様のコトバを中国天台宗の創始者の天台大師・智顗も残している。それは日本に伝わった天台宗の比叡山延暦寺に残されている。空海は真言宗であるが、天台宗とほとんど変わらない。ただし真言(マントラ)宗は、チベット仏教であるから「密教」をより大事にする。チベット仏教(ゼウス教)からの仏典である「大日経」と「金剛頂教」「理趣経」を大事にする。弥勒菩薩よりも観音さまがちゃんと出てくる。「自分が死に臨んでは、観音来迎し給う。久しからず応に去くべし。」と天台宗の開祖智顗が言っている。「自分が死んで、観音さまが私を迎えに来た。さぁ、さっさと天へ行こう」という意味である。まさしくこれが「昇天」である。それに対し「降臨」は、メシア(救世主)がこの地上に還ってくる、ということだ。弥勒菩薩に連れられて、この地上に帰ってくるという理屈である(中略)だから、空海は弥勒と共に、この世に再び降りて来ると言った。これが弥勒下生という思想だ。これでようやく阿弥陀如来・観音菩薩・弥勒菩薩の三人の女神が出揃った。全てキリスト・マリア信仰の変生であった(中略)イエスの遺体を受け取りに行ったのは、三人のマリアで、イエスの死体の受け取りを男の弟子がやると殺される恐れがあった。だから女たちが行った(中略)ピエタ(Pieta, Pietete)とは、自分の命を懸けて、死をも恐れず遺体を受け取りにゆく献身、のことを意味する。今もヴァチカンのサン・ピエトロ大聖堂の中の、入ってすぐ右に飾られていて、私たち世界中からの観光客が見ることができる。このミケランジェロの初期のピエタ像が、おそらくこの地上で一番美しい最高級の芸術作品だ。ミケランジェロ26歳の作品───副島隆彦氏(著書名失念)