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とありたい、とありたくない、と思うことさえも “ある”

サバイバーは何を実行するにも、明確な理由を作る。豊かな思い出に満ちたもうひとつの世界を創りあげ、場合によってはそこに逃避できる道を開くことで、高揚とした精神を維持する。思い出を切り拓き慈しむ。逆境にあってもチャンスを逃さないような世界を創りあげる。

信長軍は、田楽坪というところで濡れたまま休息している今川義元の本陣に突撃した。信長勢から横っ腹を突かれる形で奇襲された(中略)後ろのほうに、今川義元の本陣があっただろう。おそらく2000人ぐらいだ。その横っ腹の木立の中から、信長軍が突如、出現してきた。太子ヶ根の中を信長たちは、木立の中を馬を引っ張りながら徒歩で駆け降りて今川義元に襲いかかっていったと私は考える。現地調査をして私なりに実感でわかった。今川勢は、細く長い街道をゾロゾロと進んでいて、戦線が伸びきっていたのだ(中略)その横から、信長勢に急襲されたのだ。最前線の中島砦にいると思わせておいて敵の斥候たちの目を振り切って、信長軍は、間道伝いに義元の本陣まで接近した。信長の忍者(細作、物見)が周到に道案内した。蜂須賀小六と前野将右衛門と簗田弥次右衛門たちだ(中略)ここは尾張の地なのに当時の坊主(僧侶)は今川方についていたようだ(※現在は長福寺、元は遊行寺、時宗系の踊り念仏の浄土宗の一派)。※引用者加筆.

本態はキリスト教そのものである浄土宗も中国から日本にやってきた。日本でも末法思想と共に深く信じられ、隆盛し流行した。浄土宗=阿弥陀如来信仰は、まさしくこれはキリスト教の教えそのものである。このことを解説する。「ただ神の名(アーメン)を唱えるだけでいい」とするキリスト教の考えと、親鸞聖人の浄土真宗の教えは全く同じである、「弥陀の本願」に至るには、「ただひたすら阿弥陀仏様(アミターバ、あるいはアミタユース)の名を唱えればどんな人でも成仏できる」とする。すなわち「南無阿弥陀仏」だ。この「アミダ」は「アーメン(アクナートン神への信仰のこと。古代エジプトのアマルナ信仰、アマルナ革命の「アメン神」のことだが、ここでは触れない)を唱えよ」と全く同じである(中略)阿弥陀如来は早くも3世紀には中国に到着している。だから、4、5世紀の中国では阿弥陀如来信仰、すなわち西方浄土の浄土思想が成立している。西方とは、ずっと西の方のことでエルサレムである。だから浄土思想は、エルサレムの方を拝むという思想だ。これが、「ただひたすら神の名を唱えよ」という「アーメン(アミダ)を唱えよ」という思想として中国に伝わったのだ。「アーメン」とは「まことに、確かに、そうなりますように」という意味であるとされる。が、実はチラリと前述した「アメン神」のことである。古代エジプトでアマルナ革命(紀元前1350年頃)という宗教改革があった。このアマルナ革命のときに現れた神で、アメン神の他にアテン神を作った。古代エジプト王朝の王(ファラオ)のアメンホテプ(トゥト・アク・アメン)4世が従来のアメンをやめてアテン神を作って崇拝した。新しい神を作ったために、神官たちと10年ぐらい激しい戦いになった。そのときにアメンホテプ4世によってアマルナという新しい都市が作られたのだが、すべて消滅して再び、昔の都に戻った(中略)敦煌莫高窟の第45窟の像はとりわけ興味深い。釈迦の左隣に阿難(アーナンダ)がいて右隣が目連(モッガラーナ)がいる。もうひとりの有名な弟子が舎利弗(シャーリープットラ)だ。彼はバラモンの出でインテリだった。だからサンスクリット語(梵語)が書けて話せた。だから仏教経典が今に残ったのだ。シャーリープットラは、ものすごく重要だ。なぜなら多くの仏典でブッダは舎利弗に話しかけている。その阿難と目連の両側にそれぞれ白い肌をした女官のような美しい女性像がいる。そして、これがのちの観音菩薩と弥勒菩薩の2人(中略)さらにその横に四天王と呼ばれる毘沙門天や不動明王の軍人(中略)古代イランのゾロアスター教の最高神は、アフラ・マズダである。そのアフラ・マズダの娘(長女)が女神のアナーヒターとされる。このアナーヒターが観音菩薩になった。これは有力な学説だ。これが後述するが、弁財天という美人の女の神様にもなっている。ところがヒンドゥー教のサラスヴァティーも又、ゾロアスター教のアナヒターと同じである。もしかしたら、アナーヒターは阿弥陀にもなったかもしれない。ここは元をたどれば同じだと思う。阿弥陀のミダは音声からも元はこれはマリアだろう(中略)どう考えても阿弥陀如来は最初からマリアだ。この言葉が2世紀にエルサレムのあるパレスチナの方から伝わった。紀元前563年に生まれたお釈迦様の時代には、救済という思想はまだない。

752年に奈良の大仏が開眼(完成)したのだが、聖武天皇が敢行したこの国家的大事業は、「我が日本にも中国にあるのと同じような大きく金色に輝く大日如来が欲しい」という、いかにも小中華の思想である。この大仏の建造と金メッキ作業を行った行基(668〜749)も多くの信者を得た不思議な僧だ。土木業者であり、いつも1000人ぐらいのエンジニアが行基に連れ従っていたようだ。行基は道昭(629〜700)という法相宗の僧の弟子である。そしてこの道昭こそは、何と653年に遣唐使で長安まで行き、玄奘三蔵から直接、習った日本人なのである。もう一人いるようだ。この事実は重い。日本人僧の中で唯一「三蔵」の称号を与えられたのが、法相宗の霊仙(759〜827)という僧である。この霊仙は、空海、最澄と遣唐使の同期(中略)最澄の場合は、前述した義真という弟子がいた。義真は渡来人(中国人)との混血で、中国語ができた。だから最長の通訳として一緒に中国へ渡った。義真は、最澄の次の天台宗の2代目門主(=最高の地位)になっている。こういう事実を天台宗の本山は隠していない(中略)最澄が空海に『理趣釈経』という仏典を貸してくれと頼みに行っている。しかし、空海は「悟りは文章修行ではなく実践修行によって得られる」と言って、冷たくあしらっている。813年のことで、空海が40歳、最澄が47歳の時(中略)最澄を含めての5人の弟子たちも、空海に灌頂(頭に水を垂らす儀式。キリスト教のバプテスマ、洗礼によく似ている)の儀式をしてもらっている。だから空海のほうが格は上だった。しかし最澄(伝教大師)の方が正式の国家エリートだったようだ。最澄の弟子の泰範が空海の元に行って、比叡山に帰って来なかった(816年)りして、2人は激しく派閥闘争と思想闘争をしている(中略)このような日本の仏教の中国からの輸入とフランチャイズ(支店経営)の基本のことを日本人がきちんと理解しようとしない(中略)同時代人として最澄と空海の2人とも当時の中国の仏教界の影響を強く受けているから、観音信仰と弥勒信仰を持っていた。空海は死ぬ2年前に、遺言となる最後の論文を書いている(中略)ここにはまさしく弥勒下生が説かれていた(中略)空海はこのように遺言している。「私は弥勒菩薩と共に、下生(地上に降りて来て)して皆を救済する」と。これと同様のコトバを中国天台宗の創始者の天台大師・智顗も残している。それは日本に伝わった天台宗の比叡山延暦寺に残されている。空海は真言宗であるが、天台宗とほとんど変わらない。ただし真言(マントラ)宗は、チベット仏教であるから「密教」をより大事にする。チベット仏教(ゼウス教)からの仏典である「大日経」と「金剛頂教」「理趣経」を大事にする。弥勒菩薩よりも観音さまがちゃんと出てくる。「自分が死に臨んでは、観音来迎し給う。久しからず応に去くべし。」と天台宗の開祖智顗が言っている。「自分が死んで、観音さまが私を迎えに来た。さぁ、さっさと天へ行こう」という意味である。まさしくこれが「昇天」である。それに対し「降臨」は、メシア(救世主)がこの地上に還ってくる、ということだ。弥勒菩薩に連れられて、この地上に帰ってくるという理屈である(中略)だから、空海は弥勒と共に、この世に再び降りて来ると言った。これが弥勒下生という思想だ。これでようやく阿弥陀如来・観音菩薩・弥勒菩薩の三人の女神が出揃った。全てキリスト・マリア信仰の変生であった(中略)イエスの遺体を受け取りに行ったのは、三人のマリアで、イエスの死体の受け取りを男の弟子がやると殺される恐れがあった。だから女たちが行った(中略)ピエタ(Pieta, Pietete)とは、自分の命を懸けて、死をも恐れず遺体を受け取りにゆく献身、のことを意味する。今もヴァチカンのサン・ピエトロ大聖堂の中の、入ってすぐ右に飾られていて、私たち世界中からの観光客が見ることができる。このミケランジェロの初期のピエタ像が、おそらくこの地上で一番美しい最高級の芸術作品だ。ミケランジェロ26歳の作品───副島隆彦氏(著書名失念)

私が深く尊敬するミケランジェロとモーツァルトとニーチェという3人の人類史上最高の知性たちが、激しく闘い最も憎んだのが、まさしくローマ・カトリック教会の高級坊主(僧侶)たちであった。宗教弾圧というのは、宗教団体が国家や権力(国王)などから弾圧されて信仰者たちがたくさん殺された事件だ、と考えられている。ところが、ヨーロッパの歴史を詳しく調べたら、宗教弾圧はローマ教会自身によって、ほとんどが行われていた。信教の自由を一番侵したのはローマ・カトリックだ。ヨーロッパ各国の歴史のなかで、一番の殺戮を行ったのはローマ・カトリック教会だ。宗教が政府によって弾圧されたのではない。ローマ教会が、宗教裁判(Otdeal オーディール)によって、ヨーロッパの知識人や立派な人たちをたくさん焼き殺したのだ。このこと抜きで、宗教の自由を言うべきではない。やはり、人類の諸悪の根源はローマ・カトリックなのだ。共産主義の悪のせいで人々が虐殺された罪は、その次だ。あのイタリア・ルネッサンス運動というのは、まさしくローマ教会による抑圧、弾圧と、それに対する知識人たちの血みどろの闘いだったのだ。日本人はこういう大きな本当のことを今も教えられていない。

涅槃に行く中間地点として「浄土」という概念が生まれたのです。涅槃とは究極の悟りの世界、浄土とは「涅槃に至る過程の悟りの世界」↓

サッカー選手の中には、ゴールを決めたときに十字を切る選手がいるが、その彼はカトリック信者(中略)カトリックの場合は、父なる神様や神の子イエスは恐れ多く、親しみやすい存在としての「マリア信仰」がある(中略)カトリックはマリアにも祈るが、先のとおりそれはマリアを介してキリストに祈りを捧げている。

イエス・キリストはユダヤ教の中の「エッセネ派」と呼ばれる清廉で厳格な宗派(セクト)に属していたとされる。エッセネ派は、ユダヤ教の中でも腐敗の少ない、純粋で清貧を実践する宗派であったらしい。この古代ユダヤ教の一派であるエッセネ派は、出家を奨励しており、「志のある立派な男は35歳になったら家族と家を捨てて、愛欲(現世の諸欲望)を断って出家せよ。岩石砂漠のようなところの洞穴を掘ってそこでもっぱら瞑想にふける厳しい修行生活をせよ」という宗派であったらしい。彼らの姿をアラビア砂漠のベドウィン(隊商の遊牧民)たちが通りすがりに見てやがて尊敬した。ここからイスラム教が生まれた(622年創立)。当時は子供も15歳で十分大人だから、35歳ぐらいになれば、子供も自分の力で生きてゆけるから、家族と離れて出家しても家族は困らない。だからエッセネ派はそのように考えたのだろう。極めて合理的な判断だ。

『空』が『物質』を包摂し、また『空』は『無』も包摂する。このように、『空』は『物質』と『無』の、共通の上位概念である。同様に、感銘を受けたり、想像したりといった、われわれの意識や認識もすべて『空』であるのだよ(中略)この考えを知れば、迷いから遠く離れるので、覚りの世界に至ることができるのだ(中略)その言葉というのは、以下のように伝わっています。「とありたい、とありたくない、と思うことさえも “ある” ということなのだ」(中略)上座部仏教(南伝仏教)的な悟りは縁起を悟って、この世の「空(「有」であろうが、「無」であろうが、世の中のあらゆる存在と現象を包摂する上位概念)」を知ること。大乗仏教(北伝仏教)では、仮観を知って中観までいって初めて悟りということ(中略)人は悟りを開いたとしても、それだけでは何の価値もない(中略)「人の役に立ちたい」という利他的なものでなければ意味がありません(中略)役割を果たすということは「自分だけを大切にしない」ということ(中略)あなたは周りとの関係によってどんどん変わるし、年齢によっても変わり、いずれ死を迎えます。ということは「アプリオリなもの=未来永劫変わらないもの」はこの世に存在しないということになります。これが「諸行無常」(中略)「諸行無常」は「アプリオリ性の否定」そのもの(中略)「自分」とは、「他者との関係にまつわる情報」が寄り集まったものなのだ。このことを釈迦は「縁起」と呼び、現代分析哲学では「自我とは評価関数である」といっている(中略)「自我」というのは、世の中で何が重要かを並び替える関数のことを言います。もう少し簡単にいうと「自分にとって重要なものの集合」(中略)お釈迦様は自我の盲点を外し続けることですべてが見えるようになり、やがて悟りに達しました。この悟りこそが、釈迦の説く「空」 という概念(中略)摩訶止観→「心がすべてであり、すべてが心である」(心の中に)一念三千(「見(けん)( 誤り・スコトーマ→見たくない現実は認識しようとしない )」→ 根本煩悩(煩悩は空でもあり仮でもある。存在もするし、非存在でもある→止観。止観の極意→立ち止まって自らのあり方を見詰めてみる)の最後 → 正見が生まれる)→因果関係(縁起 ⇄(哲学)東洋哲学)。縁起を知らないことが無明。因縁→縁を起こして人を動かす技術。因は抽象度が低く、縁は間接的に見えて実は高い抽象度で直接的(中略)仮観(すべては心が作り出した幻想かもしれないから現実逃避してはいけない、自分の状況をよく見なさいということ)=仮のゴール設定。仮観 ⇄ 空観 ⇄ 中観(中の理・慈悲心・幻から自分を観るか?現実から自分を観るか?)⇄ 仮観 ⇄ 空観(中略)仏道修行はその認識の為にある(中略)「運がいい」とは夢が実現した状態をいう───苫米地英人博士(著書名失念)


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