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モノローグ性を乗り越えて小説を読むこと(ニンゲンさんへの手紙1)

ニンゲンさんへ

この手紙は、11月12日の深夜に書いている。(しかしその後で結局かなり書き直した。)
本当はこんなにすぐ書くつもりではなかったのだけど、遅くまで話していたら目が冴えて眠れなくなって、寝れずにじっとしているよりはいいと思って書き始めた。
今回の話がやや後味の悪いものになってしまったのは申し訳ない。自分としてはむしろ、この話の後で、坂口安吾という作家について俄然興味が出てきた。『ライ麦畑』で、「いい小説とは、読み終わった後で作者に電話をかけてみたくなるような小説」というような表現がある。自分はあまり小説の作者に電話をかけてみたい、というような感情になったことはないが、坂口安吾にはどこか、自然に話をできそうな人だな、と勝手に思うところがある。今後、ぼちぼちと読み進めてみたい。

聞く人にとってはどうか、今のところ分からないけど、文学ラジオの試みは自分にとってすごく面白い。週末に話していたテーマについて、意識的には忘れるところが多くても、どこか頭の隅には残っていて、少しずつ色んなことについて考える。何について考えているのかは、よく分からない。むしろはっきりとは言語化できない、多様なことについて心に引っかかりを残して行って、それが決して解決には至らないものの、しかし全く進歩していないわけでもない。そんなことが、小説の思考なのかもしれないと思う。

こういう機会をもらえたことに対して感謝したい。また、ニンゲンさんがこの取り組みに対して払っている、多大な時間的・心理的、また時に金銭的なコストに対しても感謝する。今のところ自分はまだフリーライダーのようであり、申し訳なく思う。そう思うから、せめてnoteで記事でも書いて貢献したいと思い、ここ最近は時間をとって何を書くか考えていた。しかし、前にも言ったように、普通の意味でnoteにエッセイのようなことを書くのは、なぜか興味がわかず、書き続けられる気がしない。

なぜ書きたくならないのか?と考える。それは、煎じ詰めれば、書くことによって、不安になるからだ。

言葉には色んなモードがある。それを切り替える最も重要な因子は、それが「誰に向けての言葉なのか」ということだ。自分には、妻に向けての言葉、友人Aに向けての言葉、同僚Bさんに向けての言葉、生徒Cに向けての言葉、両親に向けての言葉、他所でたまたま知り合った人に向けての言葉など、当然、色んな言葉がある。こういう特定のシチュエーションでなら、その都度話したくなることは沢山ある。話すことも書くことも好きだ。しかし、特に文学などについて、ブログなどの形式で書き始めるとき、どんな言葉で書くべきなのかが、どうも安定しなくなる。「(本当に存在するかわからない)不特定多数の通りすがりの読者」に向けて書こうとすると、これは自分が書き慣れないせいもあるのかもしれないけど、そのこと自体からかなりネガティブな感情を受け取ってしまう。WEB上を漂流している知らない人に向かって、「頼むから俺の言葉を聞いてくれ!」と見境なく取り縋って捕まえようとしているような感じ。商売でやっているなら話は全く別だけど、自分の単純な趣味としては、こうした文脈の中で話したい話題は自分の中には存在しない。どういう言葉であれ、独白調ではなく、相手の反応を想像しながら書ける方が、自分にとってはさっぱりしていて気楽だ。だから、手紙という形式で書いていけば、少なくとも何かは書き続けられるのではないか、と思った。ラジオと同様、とにかく何かを始めてみる、ということが重要なのだと思うから、きっかけとしてはいいのではないか。そういうわけで、まずはニンゲンさんへの言葉として、書いていきたい。

ところで、今度扱う予定の、東浩紀さんの『訂正可能性の哲学』に触発されて、バフチンの『ドストエフスキーの詩学』を読んでいる。
この評論は、文学ラジオで自分たちがしようとしていることがどういうことなのかを考える上で、多くのヒントを与えてくれるような、インスピレーションの源泉になりうる本だと思う。
この本に書かれている有名な概念で、ポリフォニー(多声性)というのがある。これは「モノローグ ー ポリフォニー」という対比の中で定義されている。

モノローグ的な小説とは、作者のイデーが登場人物を含む作品世界全体をコントロール下に置く小説で、バフチンの議論では、トルストイやツルゲーネフをはじめとして、ドストエフスキー以外のほとんどの作者がこの分類に入る。
一方、ドストエフスキーの小説は、このモノローグを脱して、登場人物のそれぞれが自身のイデーに基づいて議論や行動を自由に展開し、作者はそれをコントロールできず、せいぜいがそれらのイデーのうちで一角を占めることができるに過ぎないような、多声性(ポリフォニー)を獲得している、ということだ。

細かい議論については、ちゃんと検討しなければいけないし、これが創作論・小説論を超えてどこまで適用できるのかも、議論の余地があるだろう。
しかし、今の自分たちの共通する問題意識にとって、「モノローグ性をいかに乗り越えるか」ということ、また、そのためにどのような道具立てを用意するか、ということは、極めて重要なことだと感じている。

こうして文学ラジオを始めた理由も、自分の観点から言うと、「自分の人生の中で、小説を読むということをいかに位置づけ直すか」ということが主題になっている。

社会に出て働くようになってから、学生時代にあれほど入れ込んでいた文学に、どうしても気持ちを集中させることができずにきた。むしろそれがほとんど無用のものなのではないか、すっぱり忘れてしまった方がいいことなのではないか?と感じることが多かった。これは割に典型的な心情であり、なぜ人がこのように感じるのか、を細かく言語化することも面白いと思うが、今はここに立ち入らない。とにかく、このラジオの形式で定期的に対話をすることで、自分の人生にこれまでとは違った仕方で文学を位置づける、ということが可能になってくるような気がしていて、それは実際に自分の習慣を変えつつある。

この形式の良さは、自分の読みを文字通り「モノローグから解放する」ことだ。仮に小さな切り口だとしても、人それぞれの目に映っているもの、心に生じている考えは違う。対話的に、集合的に読むことによって、明らかに一人で読んでいたのとは違う文脈が、自分の中でセットされる。もし、ラジオを聞いていてくれる人からの反応がもらえれば、これはさらに広がっていくだろう。こうしてもたらされる複数性の視点がどのようなものなのかを、もっと考えてみたいと思う。

どんなことについても、人と会話するのは面白いものだけど、小説について語るとなると、なぜかこれが一層面白い。小説は明らかに一つの媒介となっていて、読み手の側に、その小説の一文一文を読まなければ存在しなかった形で、感情や記憶、思考の回路を開かせる。それは読み手の実存全体を動員する、総合的な反応であって、非常に個人的で、偶然的で、即興的なものだ。むしろこのような反応が生じるからこそ、およそ何かを読む、ということは成立しうるのだと思う。これは一人で読んでいても同じことなのだけど、人と読むことによって、こうした効果をさらに実感し、高めるということがありうるのだと感じる。これは「他者を感じる」ことだ。

ポリフォニー小説の作者に要求されるのは、自分および自分の意識を捨てることではなく、むしろ自分の意識を極度に拡大・深化し、意識の(無論一定方向への)構造改革を行なって、そこに完全な権利を持った複数の他者の意識を包括できるようにすることなのである。

(バフチン、『ドストエフスキーの詩学』)

ドストエフスキーほどの創造性はなくても、ここで言われている「意識の構造改革」を、この取り組みで多少は果たせるのではないか? そしてそれは人が生きる上で、何かを変えることなのではないか、と思う。

長くなってしまったので、今回はここで終わりにする。
ニンゲンさんと、今はなくなったらしい紀伊國屋人新宿南店で出会ってから10年以上経っている。これまで色々と話してはきているけど、あらゆる人間関係と同様、僕たちはお互いの99.999%以上のことを知らないはずだ。
今回この手紙では主に文学について書いたが、もっと関係ない個人的なことを書いて行っても面白いかもしれない。

何でもいいけど、気が向いたら何かパーソナルなことについても書いてほしい。例えば、「子供の頃の記憶」とか。

村上春樹が、「小説を書くには、自分の考えを単に書いていくのではなく、カキフライについて書いてみるべきだ」というようなことを言っていた。
だから、重たい文学の話もしつつ、カキフライについても書いてあるようなやりとりになるといいと思う。

急に寒くなってきたので、お互い体調に気をつけよう。時間がある時にお返事をください。

ワン

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