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その日、一番長くて、短い一席

 落語を聴き始めたのはコロナ禍の頃。ほんのりと興味があった落語も、どこかへ聴きに行くのには敷居の高さを感じていた私が、配信に飛びついた。寄席のトリを取るはずだったある落語家さんが、歴史上はじめてクローズしてしまった寄席で本当なら一席演じるはずの時間帯に、YouTubeで生配信をしていたのだ。と言っても私はそのことを後から知って、アーカイブで一気見したのだけれど。

 そのチャンネルでは寄席についても紹介していた。以前図書館で借りてきた落語の本に寄席のことが書いてあったが、昼と夜の席があるとか、前座からトリまで落語家さんが大勢出てくるとかで、「昼と夜は別物なの?」、「途中で入退場できるの?」、「もし初心者の私がおかしなことをしたら常連のおじさんに怒られるの?」とか色々心配だった。でもその落語家さんの動画を見ると、いつでも好きな時に行けばよさそうだったし、それほど敷居が高そうでもなかった。画面越し、軽やかに「寄席においでよ」と言われ、私は出かける勇気を得た。

 その落語家さんや、一緒にテレビに出ていた後輩の落語家さん目当てに、浅草の寄席に向かった。私は常連さんに怒られないよう、開演前に入場した。沢山の落語家さんが代わる代わる登場した。とても面白い人もいれば、ちょっと眠たくなる人もいた。少し飽きてきた頃、それは入場から4時間以上経っていたのだけれど、やっとお昼の最後の人が登場した。

 背が高く、しゅっとした人が、舞台の左から、ゆっくり歩いてきた。ずっとおじさんやおじいさんを見てきた所で、「若手のイケメン落語家登場」といった風情だ。私は落語家さんに限らず、普段の生活でも、イケメンに対しては謎のバイアスがかかる。例えば、イケメンは性格がとても良くなければいけないとか、歌手だったら歌がとてもうまくなければならないとか、ハードルが上がる感じ(イケメンさん、ゴメンナサイ)。

 その落語家さんが座布団に座り挨拶する様子は、とても丁寧で、にこやかだった。感じの良いイケメンさんか。

 その人は穏やかな口調で話し始めた。が、だんだんギアを上げるように、おもしろさが加速していった。一人座る座布団の上で、何人もの人が登場し、会話したり、走ったり、ありもしない沢山の小判を重そうに持ったりした。大きなほくろのあるイケメンさんの顔が汗だくになった。着物にも汗が滲むほどだった。私は、その人がイケメンだとか、そんなのどうでもよくなって、夢中で聴いた。沢山笑った。ほっこりもした。

 その人が話を終えようとする時、私は、うれしいような、寂しいような、でもなんだかとても幸せな気分だった。舞台の上のその人は、長いこと正座していた座布団を横によけ、幕が降りる最後の最後まで、丁寧に丁寧に、客席に向かってお辞儀をした。トリというのは他の人より持ち時間が長いと本に書いてあったが、一番短く感じた。

 私はその日からその落語家さんを追いかけている。私の、謎のイケメンバイアスを、どうでもよいと取っ払ってくれたその方の自己PRには、こう書かれている。

 「観ている人が時間を忘れてしまう、そんなロマンチックな落語を演りたいです」

なるほど、どうりで。

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