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【考察】ラノベのタイトルだんだん長くなってない?

ライトノベルをご覧になる方に尋ねたいのだが、ここ数年のライトノベルのタイトルが長く感じないだろうか。

過去遡ると『スレイヤーズ』や『いぬかみっ!』などパッと見ですぐ読めるタイトルばかりだったのだが、2000年代も中盤になってくると『灼眼のシャナ』や『涼宮ハルヒの憂鬱』など「〇〇の〇〇」というタイトルが増えてきた。

そして現在。

「〇〇の〇〇は〇〇だった」という長いタイトルのライトノベルが覇権を握っていることが多数ある。

個人的には特に賛成も批判もないのだが、なぜこうなったかということが気になって仕方がない。
おそらく今まで通して読んだライトノベルは5シリーズにも満たないくらいの素人だが少し考えてみた。

(※こちらは考察記事です。事実関係に関してはブックオフオンライでどのようなライトノベルが発売されたか1980年代~2014年までの名作を一覧として掲載しているページが詳しいのでそちらをご参照ください)



読者はどこで作品を知っていたか

私は、掲載メディアの変遷が第一の鍵だと考えている。

インターネットがまだない1990年代には、雑誌や口コミが主だった情報の発信地だった。これはテレビゲームでも同じことが言える。

1990年代のライトノベル雑誌

雑誌の編集者が「これはいいぞ!」と発信して、読者がそれに共感できるか読んでみる。多くの共感を得られればアニメ化してもっと読者が増える。
雑誌の編集者が良いと感じれば、誰でも知ることが可能なコンテンツだった。

つまり、最初に情報を発信するのは著者ではなく、出版社や情報雑誌の編集者など、書店に陳列される前に内容を知ることができる一部の人だけだった。

さらに当時はSNSなど当然ないので、ライトノベルに限らず漫画でも編集者が掲載するかどうかの全権を握っていたのだと思う。

このことから「場所(〇〇高校、〇〇学園)」や「職業(〇〇バスターズ)」のような基本情報が察せられるタイトルであっても、「登場人物の境遇」や「敵味方の目的」など核心に迫るタイトルにする必要がなかった。
というより本来タイトルは短いのが当たり前なので長くする発想もあまりなかったのかもしれない。

そして、この『内容が編集者や出版社によって保証されている』という確信が持てたからこそ、雑誌や書店なんかでおすすめされればすぐ手にとるまで一貫してできたのだろう。

ただ昔は立ち読みに寛容だったので、普通に書店で立ち読みして気に入ったら買うみたいなこともあったと思いますが趣旨から外れるのでツッコミません



”ニコニコ動画”の影響

2000年に入ると、アニメの放映数が爆発的に増えた。もちろんその中にはライトノベル原作のアニメもあり『シスタープリンセス』『キノの旅』『フルメタル・パニック!』など現在でも知名度があり、続編が制作されているアニメもある。
(※余談だが2020年から毎年シリーズが放映されている『魔術士オーフェンはぐれ旅』も、元々1990年代のライトノベルが原作で、1998年頃に2期アニメをやっていた)


キノの旅


魔術師オーフェン(アニメVer.)

2006年になり、ニコニコ動画がサービスを開始すると、掲示板でオタク談義を繰り広げていた層やアニソンカバーなどを細々とやっていた人が流れ込んできて、オタクの一大コミュニティの様相を呈すようになった。

ちょうどその時に放映されていたのが、『灼眼のシャナ』や『涼宮ハルヒの憂鬱』などである。
特に『涼宮ハルヒの憂鬱』はオープニングテーマの『ハレ晴れユカイ』が多くの視聴者にインパクトを与え、ニコニコ動画の歌ってみた、踊ってみたなど自己表現の場を持っていた人たちに大きな影響を与えた。

こうしてニコニコ動画の流行でアニメそのものが市民権を得るようになると、原作そのものの人気も出るようになる。

実際ライトノベル市場は2007年頃からうなぎ登りで大きくなり、それに応じて素人が小説大賞へ応募する作品数も増え、ライトノベル原作のアニメ化も大幅に増えた。

さて、本題に戻ると、この頃から「〇〇の〇〇」というタイトルが増える。
これといった法則性はないが、大体「(登場人物や主人公)の(状態、行動)」という並びが一般的だ。

おそらくこの原点は「キノの旅」だと思う。それ以前で有名な作品やアニメ化した作品を知らないだけなのかもしれないが、そう断言できる。

無責任艦長タイラー 
アニメとキャラデザが違うことと、下野紘さんが声優を目指したきっかけとして有名

というのも、1990年代を例にとれば『無責任艦長タイラー』『魔法使い〇〇』のようにあだ名や称号をつけて主人公や作品に出てくる象徴的な人物をタイトルにすることが多かった。

つまり、タイトルにわざわざ誰が何をするかまで書くことがなかった。

それが『キノの旅』→キノという登場人物が旅をする作品なのか、というような当たりをつけて読むことができるようになった。

これの効果として、友達や所属サークルで話題になりなんとなく興味が出た、いわゆる「にわか層」にわかりやすくしたことが挙げられるのではないだろうか。

まとめると、
「書店でライトノベルを目的として買い求める層が読者の大半を閉めていたが、アニメの普及によりライトノベルそのものがアングラではなくなり、ライトノベルがどんなものかを知らずに内容の補填やアニメの続きを見るために買う層が大幅に増えたからこそ、まず目に付くタイトルからわかりやすくした」
ことが考えられる。


異世界転生と「なろう系」

2013年頃からライトノベル産業は過度期を迎え、それ以降から電撃文庫や角川スニーカー文庫など大手レーベルから発売されるライトノベルのアニメ化が少なくなってきていた。

何故かというと、明確な理由はないと思うが「なろう系」の台頭がその一因であったと考えられる。

実は2007年頃から「ケータイ小説」が流行っており、ドラマ化もされた『恋空』など有名になった作品も出ていた。
ただし、本来ケータイ小説はあくまで素人が出版社を通さずWEB上で公開している作品であり、インターネットに馴染みがない時代の人からすれば、知ってもらう機会のないまま時代と共に消え去るものであるはずだった。
それが、インターネットを多くの人が日常的に利用し始めた時代になると、不特定多数の人がそこに評価を与え、果ては読者からの爆発的な人気を得たり、編集者から注目される作品であれば世に出ることもできるようになった。

そして、この「名前も知られていない素人が趣味で書いた作品がWEBを通して世に出るようになる」という現象はライトノベルにも影響を与えた。

「なろう系」という言葉自体は最近になってできたものだが、この「なろう」こと「小説家になろう!」というサイトは2004年と割と古くから存在した。
今ではあって当たり前だが、当時は一度に小説家を目指す人たちが書いた文章を読むプラットフォームがなく、開設の経緯も「みんな書きたいものを自分のブログで上げてしまっていて探すのが大変」というところからであった。

このケータイ小説や小説家になろうなど、出版社を通さず作品を公開できる場ができたことである現象が起きた。
それは「まとめきれないほどの膨大な数の作品群の登場」である。

1ヶ月に合わせても20作品もなかった小説が一気に何十、何百と増えるのである。読者からしてみれば新たな作品の波をかき分けるために、一作品に固執するわけにはいかない。
そんな情報過多な時代に歓迎されたのは「設定が想像しやすく、深く考える必要がない手軽な作品」だった。

さらにこの想像しやすく手軽なものとして選ばれたのが「異世界転生もの」である。

元々ライトノベルの原初はファンタジー系であり、それが2000年以降学園ものなどの日常作品に置き換わり、学園異能ものとして昇華していった。
その中で日常と非日常をうまく組み合わせることができるようになった人たちが「全く知らない世界を過去培った知識や技能で渡り歩いていく」というテンプレートを生み出した。

時たま揶揄の言葉として用いられる、転生した異世界では全く知られていない転生前の世界の常識を披露し称賛される、いわゆる「あ、俺またなんかやっちゃいました?」が日々の生活に不満がある読者に爽快感を与えているから受け入れられた、と筆者は邪推している。

こうして、ある程度紆余曲折があっても最終的に主人公がなんとかしてしまう、という話の流れが出来上がり、あまり複雑なものが好まれなくなった。

客観的に見れば、「今まで培われた創作の粋を集め、それをわかりやすいように落とし込んだハイコンテクストな試みをしている作者」と「情報過多の時代に、1作品にかける時間を極力少なくする効率的な読者」の構図が出来上がっているのである。そういう読者に『境界線上のホライゾン』全巻渡したら発狂するんじゃないだろうか。

こうなってくると内容だけでなく、タイトルにも影響が出る。
現在知名度が高い作品として『転生したらスライムだった件』や『ダンジョンに出会いを求めるのは間違っているだろうか』などが思い浮かぶが、これもそんな効率化とわかりやすさの賜物と言えるだろう。
一発でどういう境遇か、どこで何をするのかという目的がわかってしまう。


転生したらスライムだった件

この5W1Hてんこ盛りのタイトルが、一過性のブームなどではなく、なるべくしてなった理由があると考えられる。

それは、「目にする作品が多くなると好きなものを選ぶ手間さえ惜しくなる」ということだと思う。

まだ2000年頃は、その良し悪しや好き嫌いは内容に求められることが多かった。タイトルを見ただけで「これは良作」、「これは駄作」とは考えなかっただろう。
しかし、作品が数多く世に出るようになった現在は「どの作品を見よう」から考えるため、内容を見ることが作品を選ぶ前提にならないのである。

そうすると、タイトルを見ただけで見るべき作品かどうかを判断する土壌が出来上がっていく。それに合わせて作者や出版社もタイトルをわかりやすくする。

そういった流れから長いタイトルの作品が世に出てくるようになったのだと考えた。


まとめ

どの時代でもライトノベルとして出る以上、編集者などが間に入り内容を推敲しているため、極端につまらないことなどないはずだ。
しかし、予想外に素人が書いた作品の出来がよく、だんだんとクオリティが高くなると、読者としては「もう自分に合わないものが許せない」という極端な価値観も生まれてくる。

そうなったら、批判されるより前に読者を選定してしまおうという動きも加速するはずである。
それが形となって表れたのが「誰が何をしたかわかるタイトル」なのだと思う。

自分が好きなジャンルの内容だとわかれば、突飛な内容でも許せるし読み続けられなくても手には取ってもらえる。それが狙いなのかもしれない。

クリエイターの増加、掲載メディアの増加、そしてハズレを嫌う読者の増加、そんな状況で作者が目指すのは“まず見てもらい知ってもらう、なおかつ買ってもらう“ことなのだろう。


完走した感想

随分と細かい話をしてきたが、まずこれは全て私の妄想であることはお伝えしたい。正直エビデンスも何もないしなんならちょっと受け売りもあるくらいだ。誠に申し訳ない気分になってしまう。

改めて考えると、ライトノベルに限らず物書きを苦しめるものの一つに「コンテンツやクリエイターの多様化、そして大幅な増加」が挙げられるのは事実だろう。
何かを書けば見てもらえる、誰かが見てくれるということが甘いことだと認知されるようになったのは否めない。

だからちょっとでも見てもらえるように、良いものを書いた上で認知してもらえる工夫をするのである。

と言いながらも全くもって工夫も何もない、こんなnoteの片隅に書いた文章が誰かの共感を呼べばいいなと思いながら、文末としたいと思う。

~了~

(今『ようこそ実力至上主義の教室へ』が熱いので読んでほしいです。アニメもやってるけど原作も読んで欲しいです。正直この文章の中で一番伝えたかったことはそれです)

参考にした記事↓

https://torja.ca/entame-zanmai-86/


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