寺山修司×菅原文太×清水健太郎「ボクサー」。
寺山修司が自分自身の世界観を東映カラーに染め上げた「唯一の商業映画」菅原文太・清水健太郎主演、1977年10月公開映画「ボクサー」より。
この1年後、谷村新司率・矢沢透らフォーク・グループのアリスは、ミドル級チャンピオン:カシアス内藤をモデルに「チャンピオン」をリリース、大ヒットを記録している。「ボクサー」が作られた時代は、本曲と同じように、勝者よりも敗者を謳うことが遥かに意味を持っていた時代を象徴している。
それは冒頭のクレジットロール中、後楽園ホールのリングに続く廊下を延々と歩く師弟の姿にカメラを合わせつつ、その横を、前の試合の敗者が担架で運ばれ、勝者も傷つきセコンドに肩を借りて運ばれていく姿を、ざらついた白黒のフィルムに刻み込むように、食い入るように描写している点で、明らかだ。
とりあえず、漂えど沈まないわかものである謙次(演:清水健太郎)が、着こなし抜群な元ボクサー哲生(演:菅原文太)に弟子入り、一ボクサーとしてリングに上がるまでの一部始終を描いた映画であることだけ分かっておけばよい。
二人の出会うの縁は異様、そして如何にも寺山的だ。すなわち、沖縄から本土に就職にやってきて、スクラップ工場で働いていた謙次は(「カサブランカ」のポスターを背景に、皮肉にも)初恋相手に振られてもやもやした気持ちを抱いたままクレーンを操縦したのが良くなかったか、同僚をつぶしてしまう。その同僚こそが哲生の唯一の肉親、弟だった。
哲生は哲生でボクサーを引退し、今は飲んだくれ、酒代稼ぎにピンクのビラ貼りに身をやつしている身。かつて栄光に選ばれた男が「本番生板」のケバいチラシを貼る様は、痛々しく、非常に生々しい。
見るからに負け犬の顔をした清水健太郎と、負け犬姿も絵になる菅原文太と。ともかく、謙次の頼み込みを機に、の二人は同じ負け犬同士、手を組み、「僕は誰にも負けないボクサーになりたい」と謙次が自室のドアに貼りつけた決心とともに、二人三脚でリングに上がることを目指す。
ここに哲生の「母離れ」の葛藤を絡めて、ドラマの起点に寺山的なドラマツルギ―が詰まっているとすれば、続くトレーニング描写には寺山のビジュアル感覚が凝縮されている、と言ってよい。
すなわち、どぶ犬同士、ジムを持つどころか他所のジムからも門前払いを食らうので、場所を選ばず、あちらこちらと渡り歩いてトレーニングを続ける。 木場の上でうさぎ跳びやミット内を敢行したり、 ブランコ縛りしたタイヤで腹部を鍛えたり、あるいは憎んでいるやつの写真をベタベタ貼ったサンドバックに、「殴りつけろ!」と哲生が指導するまま謙次が鉄拳を打ちこんだり。マンガ的というべきか、スポ根的というべきか。ありえそうであり得ない特訓描写が繰り広げられる。
謙次の「世の中全部を憎んでやる!」という心意気に答えて師匠を引き受けた哲生。以上の特訓と、「殴られ屋」の巡業を経て、みごと彼自身もまた謙次にとって「憎まれる相手」に変容していく。
やがて、ふたりはリングに立つ。親子の因果とか、肉親の絆とか、まだ見ぬおっかさんとか、そういうものを全て投げ捨てた上で。
本作、寺山修司原作・監督ばかり独り歩きしているが、キャスト:主演ふたりも魅力的。
何といっても清水健太郎。ボクサーとして見るには線が細い、からこそ、やられっぷりが引き立つし、血まみれになった顔での逆襲が際立つ。そして、試合に負けた八つ当たりにカフェーの給仕を野次る情けなさも絵になる。
師匠を演じる菅原文太もよい。ネックセーター、ジーンズ、下駄、ロングコート、という一歩間違えればクソダサコスチュームすら、サマにしてしまう文太様に惚れる。セコンドとしては、鴨川会長や丹下段平のような迷いを感じさせない喝の入れ方、師匠として非常に魅力的だ。
結論。本作は
という寺山自身の言霊の力を借りて、「ロッキー5」をさらに野暮ったく浪花節にした世界観によって成り立っている映画なのだ。
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