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「大人はなんでも知ってるんだ、子供は口出しするんじゃない!」_『Suburbicon』(2017)

2017年に公開されたアメリカのクライム・コメディ映画、ジョージ・クルーニーが監督、マット・デイモン、ジュリアン・ムーア、オスカー・アイザックなどが出演した『Suburbicon』(邦題「サバ―ビコン 仮面を被った町」)より。

[first lines]
Narrator: [as story book pages are turned] Welcome to Suburbicon, a town of great wonder and excitement. Founded in 1947, Suburbicon was built with the promise of prosperity for all. And in only 12 short years, it has grown from a few small homes to a living, breathing community with all the conveniences of the big city without all the noise or the traffic. And now, with nearly 60,000 residents, they enjoy their own schools, a fire department, and a police department. There's a shopping mall. A first-rate hospital. Why, we even have our own choir.

IMDBから引用

と映画冒頭でナレーションされるように、物語は1950年代のアメリカの郊外、サバービコンという平和な新興住宅街で展開される。
サバ―ビコンは白人の中流階級の家族が住む理想的な場所とされ、ガードナー・ロッジ(マット・デイモン)は下半身不随の妻ローズ(ジュリアン・ムーア)と息子ニック(ノア・ジュプ)の核家族で、何の心配もなくシアワセに暮らしていた。

そんな平和なサバービコンに突如として騒動が訪れる。ガードナーの家に夜中に強盗が忍び込んだのだ。ローズは殺され、彼女の双子の妹マーガレット(ジュリアン・ムーア)がその後釜に居座る。
ここに、サバ―ビコンにとって招かれざる移住者の存在もクロスする。すなわちガードナー家に隣に越してきた、裕福な黒人一家の存在。住民の一部は公然と人種差別的な行動を起こすようになる。
子供と大人、2つの視点で、不安と緊張と陰謀がサバービコンを覆っていくさまが、脚本を務めたコーエン兄弟のテイストで:すなわちゲロとワメきと不謹慎な笑いの中に描かれるのだ。


先に言ってしまえば、マーガレットとガードナー、ガードナーにやとわれた強盗二人組、保険営業マン:オスカー・アイザックの間でカネや世間体をめぐる見苦しい争いと騙しあいが繰り広げられる。

殊に、ジュリアン・ムーアの一人二役、ファム・ファタールぶりは素晴らしい、の一言。マーガレットは「ニックの面倒を見る」という建前でロッジ家に乗り込んだ実のところ、ニックにはまるで関心がなく、ガードナーに欲情しているだけ。マーガレットがガードナーの肌をなぞる指先、一緒に踏むダンスのステップ、密着した時の息遣いが、じつに艶かしい。
そして、マーガレットはガードナーの前で雌犬を演じる一方で、強盗二人組の前でも平気で雌犬を演じることが出来るのだ。懐に凶器を隠しながらも。
マーガレットはまた、ニックの前では母を装うことが出来るのだ。彼のための夕ご飯:サンドイッチとミルクに毒物を仕込みつつも。

他方、一見堅物のガードナーはなるほど確かに「静かに過ごしたい」男、だから「世間体を守ること」に拘る。甲斐甲斐しい世話が必要なローズのことを本当は金にもならず鬱陶しいと思いながらも周囲には「可哀想な前妻を気遣うお父さん」を装い、ローズに保険金をかけて謀殺した後は「前妻を亡くした可哀想なお父さん」を演じる。
突き詰めていえば、世間体を守るためなら、手段を選ばない男だ。案の定、最後には、保険営業マンもマーガレットすらも平気で殺す怪物となる。
ガードナー自身が悪事に手を染めている自覚はない。「社会が悪いのだ、二グロが悪いのだ」と。ありていに言えば「吉良吉影」みたいな男というべきだろうか、最も彼に「悪の美学」なんてものは存在せず、暴力性に突き動かされた凡庸な悪人でしかないのだが。


取り巻く大人たちがこぞってクズである中で、ニックは、じっと息を潜めて、生き残りを図る。彼が頼りにするのは亡き母の言葉「隣の黒人の子と、友だちになりなさい」の一言。
ニックは、黒人の少年:アンディとキャッチボールをして遊びつつ、大人の世界を垣間見る。周囲を取り囲むデモを隠れ見て、二人は言い合う、「怖くても怖い顔をするな。凛といつも通りすること」だと。


「子どもは大人に対して、毅然とした態度で臨まなくてはならない」。
その態度は、映画のクライマックス、ガードナーとニックの相対する、ふたりぼっちの夕食の席で示される。
すなわち、ガードナーは「すべてを見てしまった」ニックに対して「家族のための最善の決断をする」ように迫る:自分と共に大金を持って他所へトンズラするか、ここで死ぬか、と。

Gardner: [to his son] What do you think you know, big man? Hmm? Because I know a lot of things. That's the case with being a grownup. You have to make decisions. Decisions like what's best for the family.

IMDBから引用

ガードナー家の外では、その隣家に向かって、焼き討ちをしかけようと暴徒が殺気立って何やら喚きまわっているのが、聞こえる。
内にも外にも逃げ場はないニックは、ただ泣き喚くのみ。ガードナーは言葉を重ねて怒鳴りつける、ニックはさらに喚くのみ。YESもNOも、一切口にしない。
傍目には見苦しい子供の抵抗、しかしニックは事態を先送りすることで何かを伺っている様にも、見える。
子供を降すための長期戦を予感してか、単純な生理によるものか、喉の乾き腹の空かせたガードナーは、テーブルの上においてあるサンドイッチとミルクに手を伸ばす…。


翌朝、生き残ったニックは、ゲロ塗れになったガードナーの死体を見下しつつロッジ家の外に出る。最悪の事態が起こる前に暴徒が警察に連行されたおかげで、生き残った隣の一家:父母共に無事である息子のアンディも、どこか消耗した表情で、朝日を浴びていた。
どちらが言うまでもなく、手にはボールとグローブ。二人の少年のキャッチボールの中に、生き残った多幸感の中に、映画は終わるのだ。

結論。
本作は、子供を取り巻くエゴ丸出しの大人たちを、黒人家族への排斥運動の人並みと連動して描くことに成功している。現代のアメリカ社会ー黒人を取り巻く憎悪の群れー父親の傲慢。ジェンダー的に言えば、家父長制の二重の入れ子構造のドラマ、といってもよいだろう。
それを差っ引いてみても、保身のために威圧的に振る舞う父母の前に、反抗することはできず、忍従しかできない子供の姿に、なにか考えさせる余地のある映画であるのは、間違いない。


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