“映画、それは退屈に満ちた人生を切り離すものさ!”_“Their Finest”(2016)
クリストファー・ノーラン監督「ダンケルク」のB面。戦火の中で、誰もが夢を見たがっていた…。「人生はシネマティック!」とは、当たっているようで、当たっていないような、邦題。
第二次世界大戦では、映画というメディアが、プロバガンダに利用される成熟期を迎えた。ナチス・ドイツでいえば…の故事を引くまでもないね。
本作は、
プロバガンダ?
だからどうした、楽しけりゃそれでいいだろ!
の精神で突っ切るのだ。じつに潔い。
第二次世界大戦下のイギリス映画は,ドキュメンタリー映画,商業映画ともに,情報省のプロパガンダ政策を忠実に体現していくことになった。そんな時代の映画づくりの物語だ。
いま手がけているのがプロバガンダだろうが、何だろうが、カツドウヤにとっては大した問題じゃない。自分が関わったものが最終的に作品になるという達成感。自分が映画作りの現場にいるという充足感。その情熱を追体験できる一作。映画を愛する一ファンにとって、これ以上の醍醐味は早々あるまい。
さて、いざ、映画の撮影が始まると、途端にスタッフ・キャスト一同、しゃきんとなるのが心地よい。見てて気分が悪くなる奴が、一人としていなくなるのだ。
みんな真面目。だから、カツドウヤたちは美しいのだ。
主軸となるのはカトリンとトムの脚本家コンビ。
「お互いによいアイディア・よい脚本を出し合っていく」スクリューボールコメディな掛け合いを通して、お仕着せの「ただの英雄物語」から、自分たちが真に描きたい「ダンケルクをめぐる群像劇」へと仕上げていく。
お偉方の横槍すら、彼らの関係と脚本にはスパイスにしかならない。
より面白いものを作ろうとして、自由奔放に新しい感覚を加えていく。これで面白いものができないわけがない。
何かと制約の多い現場に放り込まれたカトリンがぐいぐい腕を上げていくのも、腑に落ちる展開となっている。
以下、「映画とは何か」と、トムがカトリンを諭す言葉からの引用。
cut out (…を)切り抜く、群れから切り離す、(…を)省く、省略する、やめる、(…の)飲食を断つ、切り開く、裁断する、取って代わる、出し抜く
そこから、「魅力的な映画のストーリーとは何か」を続けて言うに、
But art is not for anything. アートは何かのためにやるものではない
point to · 〔ある方向{ほうこう}を〕指し示す · ~を指さす · ~を指摘{してき}する、~を提示{ていじ}する、~を挙げる ...
映画は何者にも変え難いものだ。
どうして人は映画を見ると思う?物語が良く練られていて、しっかりとした形を持っていて、ゴールがあって、意味を持つからだ。物事がよく回らないとき、何か計画を立てる一助になりすらする。見る人に何かを提示してくれる。 人生と違ってね。
「映画を一丸となって作り上げていく」その他スタッフ・キャストも良い。中でもベテラン2人が光る。
一人は「二枚目時代が忘れられない俳優」アンブローズ。
「演技とは変化の術なり」と言うが、まさにその通り。平時は、メシが不味いだの近頃の作品はつまらんだの、ぐちぐち言うだけのお爺さん。それが(渋々ながらも)撮影に入ると、美声を振るい、多少クサくても存在感ある演技で周囲の面々をリードする。
そして、今までに演じた役とは真逆の、「年老いた飲んだくれの父親」を見事に演じきる。台詞へのこだわりからか、事あるごとに、ジェマにダイアローグの手直しを頼むのが、お茶目だ。
もう一人は、映画を統制する情報局の局員フィル・ムーア(演:レイチェル・スターリング)。
初見はサムが言う通り「情報局のスパイ」。独りよがりの思想を振り回すのも、鼻に付く。とはいえ、彼女も映画作りに携わる一員。いざクランクインとなれば、進行係として真剣に当たる。フィルムや人員、食料、何でも不足があれば、何処からか調達してくる。映画のために、画面外であれこれ必死に動き回っているのが、製作が思うだに進まない焦りと疲労の表情、そしてクランクアップ時の歓喜の表情、わずかな描写の中から、伝わってくるのだ。
その他、ザ・ピーナッツな主演女優2人、トムとコンビを組む老練の脚本家、主演作のファンで、アンブローズと意気投合してしまう陽気なアメリカ兵など、脇役まで微笑ましい人々ばかり。
こんな映画にかける思いはホンモノの人たちが作る映画が、見るものを楽しませない、はずは絶対ないのだ。
絶えず爆撃に晒されるロンドン。その間隙をくぐって人々は映画館に逃げ込んだ。ロマンス、アクション、ヒストリエ。そこには必ず、ひとときの夢を見せてくれる映画があったからだ。
そのバックステージには、自由な表現を許されない時代でも映画を作り続ける夢の職人たちがいた。イギリスだけじゃない、あの時代、日本、ドイツ、アメリカ、どの国でも統制の元で映画が量産された。銃声、爆撃、欠乏、それを忘れさせるために。
戦後、この類の映画はどの国でも「プロバガンダ映画」という蔑称を負わせられた。しかし確かに当時、それらの作品が、市井の人々を泣かせ、笑わせ、心震わせたのだ。必要とされていたのだ。
本作は、映画作りが一番苦しい時代に、映画を愛し、映画に身を捧げた、すべてのカツドウヤたちに捧げる詩なのである。
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