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ホワイトボード

 この一週間、ホワイトボードの購入品の欄にずっと消されないものがあった。
 それは「だしの素」。
若いころは、濃い目の味つけが好みだった。
けれど、だんだんと出汁をきかせたものに惹かれるようになってきた。
 かといって、上等な昆布が常備されているわけではなくて、スーパーの棚に並べられている一般的な「だしの素」でコトを済ませている。
 ひょっとしたら、出汁にこだわることがコスト的にもお得なのかもしれないけど、そのあたりは研究の余地がありそうだ。
 それにしても、腕利きの家事サポーターさんの薄味のお出汁のきいた煮物は、どっさりつくり置きしてもらっていても、なかなか飽きがこない。
 寒くなると、大根が甘くなる。そう思っただけで、笑顔になってしまう。

 これだけ熱く書いておいて、どうして「だしの素」を買い忘れてしまうのだろう。抹茶ラテとブラックペッパー入りのチーズは、冷蔵庫に残っていても、ついつい手が出てしまう、いや、言葉が出てしまうというのに。

 ぼくは自由に動く口(言葉)をドラえもんポケットのように使って、いろいろな人の力を借りながら、自分にしか描けない毎日を実現してきた。
 まるきりの文系人間だから、運営に携わってきた作業所にしても、ぼくの想いを伝えることでまわりの人たちがその環境や段取りを具体化してくれた。
 ほんとうは引っこみ思案なのに、みんなが担ぐ神輿の上で踊ったこともあった。


 寡黙に、コツコツと仕事する人がいる。
目立ちはしなくても、誰よりも心遣いできる人がいる。
そんな人のそばにいると、それだけで心が落ちつく。
「ありがとう」って、自然に伝えたくなる。
 ときには忘れられてもいいから、影のように濃く、薄く、誰かに寄り添える人に憧れてしまう。
みんなにではなく、いつも誰かに…。

 出汁のことを考えていたら、とんでもない方向へ行ってしまった。
ということで、今日、ようやくスーパーで「だしの素」を買った。
今回、忘れていたら、真剣に悩むつもりで家を出た。
 家事サポーターさんの来ない日曜日だから、昼食と夕食のメインがいちばん重要だった。
 けれど、ぼくにとっては何よりも「だしの素」だった。
 
 実は、ぼくの寝ているベッドからホワイトボードの文字は確認できない。
サポーターさんに買いものをコトづけるときは便利だけど、自分で行くときにはそれほど役には立っていない。
 いちいちホワイトボードを眺めて行きたいところでも、その日まかせの腰痛の具合が心配だったり、お天気が気になったり、帰ってからの予定がつまっていたりで、せかせかとなって立ち止まることをいつも忘れてしまう。
 
 一方で、いっしょに出かけるサポーターさんも、ぼくが細かいことを言われるのがニガテなのを熟知していたり、サポートされる側の手足になりきっていたり、ただただ、ぼんやりしていたり(笑)、そんな感じでホワイトボードの前を通り過ぎて行く。

 今日、もし忘れていたら、家を出る前にぼくのガラケーか、サポーターさんのスマホにでも購入するラインナップをメモするように、意識づけることを考えていた。いつまでつづくか、メモすることを忘れてしまわないか、根本的なハードルはあるけれど。

 また、ワンパターンな話になってしまうけれど、ぼくは理詰めに物事を進めるのがニガテになった。
 大阪へ出てきて、おおざっぱに振る舞うほうがウケがいいと気づいてしまった。
 待ち合わせ時間に思いきり遅れても気にしないように心がけたり、書類や郵便物が散らかっていてもほおっておいたり、意識的につづけているうちに身のまわりのことがキッチリとできなくなった。
オールドスタイルに戻そうとすると、すぐにイライラが訪れる。

 だから、今日「だしの素」を覚えているか、忘れるかはかなり大事なボーダーラインだった。

 
 最近になって、noteのネタをすぐに忘れるので困り果てていた。
今日、すこし解決策になりそうな「お手軽ポイント」を見つけた。
 思いついたら、唱えるのだ。
書くことができない代わりに、言葉にすると以外にアタマに残りやすいような気がした。
 しばらく試してみる。

 電動車いすで町を歩いているオッサンがモゴモゴとつぶやいていたら、どこか不気味だろうな。サポーターさんは行きずりの人のように、離れてついてくるのだろうか。

 
 人には、それぞれの特徴を活かした役目があるような気がする。
電動車いすに乗った凄みのある見かけは、神輿の上で踊るのが似合っていたのだろうか。
 誰とでもうまくつながりをつくるように育ててくれたぼくの家族は、将来を予測していたのだろうか。

 
 いま、ホワイトボードにはリハビリなどのこれからの予定が書いてあるだけで、購入品は何もなくなった。

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