見出し画像

なつかしい人

 彼は、物腰のやわらかな青年だった。
その性格と同じように、体を抱えるときも、スプーンを口へ運ぶときも、伝わる感触は繊細で、思いやりに充ちていた。
 気持ちが穏やかな朝は、ふたりで先になり、後になりしながら一週間分のエピソードに盛りあがったし、仕事や暮らしのあれこれに思いをめぐらせる日は空気と同化したように、ぼくの予定に合わせて町へ出る準備を淡々進めてくれた。

 ぼくとコーチ(五十歳を過ぎても、百四十キロを超えるスピードボールを投げるキューピー顔の怪物おじさんヘルパー)は、ヘビーリスナーのラジオ番組の影響で、おたがいに顔見知りのヘルパーさんにニックネームをつけて呼んでいる。

 コーチは別の介護先で物腰のやわらかな青年とコンビを組むことがあって、思いやりに裏打ちされた彼の仕事ぶりに信頼を寄せていた。とても気のあった相方だったようだ。

 こうした流れで、ぼくとコーチの世間話には、物腰のやわらかな彼がよく顔を出すようになった。
 もちろん、ふたりの間でニックネームがつけられた。
どちらが思いついたか忘れたけれど、気配りができて心やさしいところから、「女性っぽいよねぇ」という話の展開になり、「ポイ」というゴールにたどりついた。
 TPOによっては呼びにくい場面もあるので、ご本人の前ではいつも名前をくんづけしていたし、ぼくとコーチがそんなニックネームをつけていたとは、彼が専門技術を身につけて別の職種へ移るまで知らないままだったと思う。

 その朝、ぼくはバザー会場へ急いでいた。
 ウチの作業所が出店する予定だった。
 バザー品がいっぱいで車に乗れなかったので、電車と徒歩(電動車いすだけど)で向かっていたのだった。
 豪放磊落を演じていたあのころのぼくは、目的地を調べてはいなかった。
会場の教会の名前と最寄り駅からのおおよそのルートを、頭に入れているだけだった。

 バザーの時間のつき添いはポイだった。
最寄り駅で待ちあわせる約束になっていて、エレベーターでホームから改札階へ降りると、いつもの笑顔が両手を大きく振ってくれていた。
 駅員に切符を通してもらってから、ぼくたちは「おはよう!」と声をかけあいながら、ふつうに会話できる距離まで近づいて行った。

 さっそく、彼に今日の介助の内容と終了時間の確認をして、ぼくはすこし間をおいた。
そして、「ここからが大事なんや」と、わざと真顔をつくって、背筋を伸ばした。
「じつはなぁ、初めて行く場所やねん。教会の名前はわかってるし、駅からの距離と方角は頭に入れておいたんやけどな」
 ポイも初めての場所らしかった。
 
 ぼくはひとりでどこへでも出かけていたから、たいがいの人は道順を覚えることが得意だと勘違いしてくれていた。
でも、実際は何回歩いても、迷ってしまう場所があった。
 そんなぼくは、打ちあわせの最後にもう一言つけくわえた。
「地図は持ってるから、迷ったらたのむでぇ」と。

 ぼくたちは駅を出た。
最初の難関は、三方向に分かれた道だった。
 ぼくは方向オンチなのに、急に突っ張りたくなるときがあった。
前日の夜に見直した地図を思い出しながら、いくらか当てずっぽにいちばん右を選んで歩きはじめた。
 強情で小心者のぼくは、遅刻したらどうしようかとドキドキしながら先を急いだ。
となりを歩くポイを見ると、すぐに視線を感じてこちらを向いてくれた。
いつもの笑顔だった。
「大丈夫かなぁ」と声をかけると、行きはじめてから心もとない顔をするのがぼくらしい、というような言葉が返ってきた。

 とりあえずそのまま進むことにしてしばらくすると、前夜の地図上でインプットされたスーパーが見えた。
分かれ道での選択が間違いなかったことにホッとして、深めのため息をついたときだった。

 ポイがつぶやいた。
「遠くに十字架が見えてきましたよ。『ポイですねぇ』」
ぼくは車いすだし、近眼だからよくわからなかった。
そんなことよりも、予想もしないポイの口から「ポイですねぇ」が聞こえてきたことに動揺してしまった。
 笑いをこらえて、彼の反対側に顔をむけて歩いていると、今度は「つぶやく」ではなく確信めいた声が聞こえてきた。
「『ポイですねぇ』、たくさんの人が出入りしています。『ポイですよぉ!』」と。

 この追い打ちには、もうガマンができなかった。
 無事、遅刻せずにバザー会場へたどり着いたことへのホッとした笑顔にまぎれさせようと、ぼくの心の中は汗まみれになったみたいだった。
「ホンマによかったぁ!時間どおりに着いたし、よう晴れてお日さんが笑ろうてるみたいや!」
 ひっくり返るほどの笑いをガマンするあまり、「お日さんが笑ろうてるみたいや!」とは、火事場のバカ「力」的な言葉が降りてきた。
無意識のうちに、お日さんに笑いを肩代わりしてほしかったのかもしれなかった。

 休憩時間に、評判のカレーうどんを食べた。
うまくすすれないぼくは、自分からは注文しないメニューのひとつだった。
 ポイは、スパゲッティー風に割りばしにうどんを巻きつけて、ルーがからみ過ぎないようにお椀のふちで加減しながら、慣れた手つきで食べさせてくれた。
 あの日からぼくはカレーうどんに惹かれると、気分のままに注文するようになった。

 なつかしくて、書き残しておきたくなった。
 もう彼とは、連絡をとるすべがなくなってしまった。
 
 交通情報で、彼と同じ地名がたまに聞こえてくる。
よく渋滞する場所らしい。
 耳にとまって、枕もとの白い壁を見つめてみる。
 彼が現れそうな気がするから。
 
 一人ひとりを思いやりながら、彼らしく仕事を続けているだろうか。
 
 明日は、朝一番にコーチがチャイムを鳴らす。
 久しぶりにポイの話をしてみよう。
 彼のいまを知っているかもしれない。
 
 
 
 

この記事が気に入ったらサポートをしてみませんか?