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一人ひとり

 昨日、すぐご近所の八百屋へ出かけた。
予定では市場へ寄って、作業所へも顔を出すつもりだった。
 八百屋の前は、電動車いすとお年寄りの手押し車がすれ違えないほどの幅しかなくて、しかも車道との段差は十センチ以上の高さがある。さらに、お隣りのはみ出し看板が歩道の半分ほどを陣取っているから、東側からは近づいて行けない。
 いつもは、八百屋の西側の歩道の段差が低くなったところから上がるようにしていた。
 だけど、昨日はその場所に車が乗り上げて停めてあったので、どうしようもなかった。
 停めてある酒屋の客かと思って、ぼくは先に市場の買いものを済ませることにしてその場を離れた。

 半時間ほどして戻ってくると、まだ車は歩道に乗り上げたままだった。
ぼくは、すこし迷った。
車を動かしてもらうか、東側から上がってはみ出し看板をすり抜けて行くか。
 結局、後者を選んだ。

 大きく分けて、三つの理由があった。
一つ目は、面倒くさかった。
サポーターはついてくれていたけど、はみ出し看板をすり抜ける自信さえあれば、西側から上がれば何のことはない。

 ここで気がついた。三つの理由には、関連性があるのかもしれない。
ほんとうにフリーハンドで書いているから、ゴールにたどり着かないと判らない。

 二つ目は、すこしでも短時間で済ませたかった。
車を動かしてもらうとなると、すこし待たなければならないかもしれない。腰の具合が読めないから、サッサと行きたかった。
 ただ、一つ目も、二つ目も、次の理由の言いわけに過ぎないかもしれない。

 三つ目は、あくまでも内面的なこと。
道幅が狭くて、交通量の多いところでも、当たり前のように路上駐車を見かける。
 そのたびに、ぼくは自分を重ねてしまう。
「もし、ぼくがこの車の持ち主だったら…?」
短時間の用事かもしれない。多忙な中の配達かもしれない。
そんな事情がなくても、面倒くさくて停めてしまうかもしれない。
そう思うと、何も言えなくなる。
昨日のように、困っている当事者であっても…。
 さらに、心のどこかに「イヤな顔をされたくない」という厄介な自分がいる。
 路上駐車はたまたまだったし、はみ出し看板もいまのぼくの運転技術なら、確実にクリアできる。
 「わざわざ文句を言わなくてもいいじゃないか」
 まどろっこしいことから逃げようとする自分がいる。
 クレーマーと思われたくない自分がいる。

 一方で、マニュアル通りにしか動かないサポーターに苛立つときがある。
 体育館で、子どもたちに「がんばることも大事やけど、『助けてほしい』が伝えられる友だちをつくりや」などと話すときがある。
 路上駐車の車を動かしてほしいと伝えるのは、はみ出し看板を何とかしてほしいと伝えるのは、突きつめれば「助けてほしい」ではないのか。
 一人ひとりの違いを認める世の中に、つながることになるのではないか。

 そのときどきの自分に、ウソをついてはいない。
 ウソをついていないから、矛盾だらけになるのだろうか。

 モニターを見つめながら、答えをさがした。
 
 ややこしいことは抜きにして、あしたにでもはみ出し看板の店に通りにくい現実を話に行くことにしよう。
 こじれそうになったら、次の手を打てばいい。

 ぼくは、いつも「一人ひとりから…」を大切に考えるはずだった。行動するはずだった。
 
 音楽好きの友人サポーターのひとりが、ずっと一押しニ押ししてくれていた大手の有料音楽配信サービスを使うことに決めた。
 ぼくの引っかかりは、利用金額とぼくにとっての魅力のある若いミュージシャンの聴きたい曲が釣りあわないことだった。
 今日、noteを書きながら関取花さんの唄を音楽配信サービス(無料)で聴いていたら、そのうちに同じラインのいろいろな人の声が流れはじめて、四~五人はとても気に入ってしまった。
 もちろん、聴き覚えのない唄声ばかりだった。
 
 自分自身と向きあいながら、書き進めることは難しい。
 
 一人ひとりへ唄いかけるアーティストと出逢えてよかった。
 たくさんの若い世代の唄を傍らに、今日は書き上げることができた。
  

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