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心地よい場所

 このところ、一歩ふみこんで自分の本音を投稿するようになって、季節に言いかえれば青葉若葉の重なりあう晩春のころのスッキリ感とホッコリ感が入り混じった気分がつづいている。
 とはいえ、自分がコロナだと思いこんで引きこもりはじめてからの躁鬱は相変わらずで、昂るでもなく、落ちこむでもないときの安定したレベルであっても、以前の平常と比較すれば、感覚的に明らかな違いがある。
 目の奥から後頭部にかけて、なんとも言えない緊張が走っている。
まるで金属が張りめぐらされているみたいだ。

 さて、ぼくにとって、やや「躁」寄りのあたりに心地よい領域があって、誰に迷惑をかけることもなく、昂る独特のしんどさも感じずに、リラックスして過ごせるとわかってきた。これまではやや「鬱」寄りに安堵できる場所があると思ってきたけれど。

 「やや鬱寄り」になると、妙に涙もろくなる。
それは悲しいからではなく、感謝の気持ちで体のすみずみまでが満たされてゆく。
菩薩さんのような表情をして全身のこわばりをほぐしてもらっているヘルパーさんや、どんな精神状態であっても、穏やかに、真剣にむきあってくれるヘルパーさん、そんな一人ひとりと顔を合わせただけで「ありがとうなぁ」と涙ぐんでしまう。
「やや躁寄り」の気持ちが運んでくれた温かさに、若いヘルパーさんたちもニコニコして「永の別れみたいやから、やめてくださいよ」などと頭をかいたりして応える。
 こんな幸せな時間はない。

「うれしい誤算」は、これだけではない。
普段なら気を使って言葉にできなかったり、逆についついキレてしまうような内容でも、「やや躁寄り」の精神状態であれば、ほどよく落ちついて思いを伝えることが可能になる。
 この間も、コロナの感染対策について、なかなか伝えられなかったことを話すことができて、これまで以上に信頼関係が深まった朝があったし、寝起きの時間しか入らないヘルパーさんに、お昼や夜の様子を説明して、すこしは誤解を解く糸口を見つけた。

 ここまでくると、「やや躁寄り」の状態の割合をどうやって長めていけるか、ムリにならない程度にあれこれと試してみたいと思う。
 きっかけになった「本音の投稿」は自問自答しながら、しばらくつづけていきたい。

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