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丁寧に生きるということ

「みんな足があるのだから僕と同じように走れるよ」
毎日30km走っているアスリートの友人が以前言った一言を思い出した。
「いやいや、同じ足じゃないからねー!」と周りの友人たちは反論していた。私も友人たちと同感だった。

しかし今、私はアスリートの友人が言いたかった気持ちが分かる。
そして「みんな手があるのだから、手で掃除しようよ」
と言いたい。笑
身体って動かして、感じるためにある。

最近、「あーそういうことか」と思ったことがあった。
いろいろなきっかけというか、導きがあって、散歩、ヨガ、お詣り、瞑想、掃除がルーティンになって定着した。
あまりルーティンは得意なタイプではなかったのになぜか続いていた。
そのうちに、物をたくさん片付けミニマリスト化し、家の中の全ての水回りを手で毎日洗っている。手で洗うとぬめりがあるところがすぐわかる。
綺麗になる瞬間がわかる。

散歩用のスニーカーは以前のニューバランスのグレーからあえて真っ白にした。
一日履いただけで案外汚れる。綺麗なスニーカーを保つために毎日ついた汚れ分を洗う。
靴にお礼を込めて。その他の靴も全て同じ感覚。

ホテルに宿泊し、チェックアウトする際には最初の綺麗だった状態に近づけて退出する。
「来た時よりも美しく」を心がけている。
だからそれぞれの宿の宿主が魂を込めてこの事業を大切に思っているかどうかがすぐわかるようになった。魂は細部に宿るってこういうことかも。

食事も以前よりも味を敏感に感じるようになった。本当に美味しいと実感し、感動が圧倒的に増えた。

これらが美意識だと思った。

ちょうど散歩やヨガのルーティンが始まったくらいから感じるようになった。
物や人間関係も手放し、食事に気を遣い、体重を管理し、望む仕事のペースを作り、自分にとって心地の良い、大切なことだけを日常にしていった結果、自分の中に大きなスペースが生まれ、直感が高まり、美意識が高まった。
こうして起こる出来事の一つ一つを察知して選択をする。
大きな流れに乗る。自然体で本来の自分のままで生きる。
自分の人生を祝福し、引き受ける。
でも「自分」が「自分のものではない」感覚もある。
「自分のものではない感覚」があるからこそ丁寧に生きようとしているのかも。

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